ブッチャーがテリーの右腕をフォークで「えぐり抜きます!」。全日本プロレスの名実況アナが振り返るまさかの瞬間

  • 松岡健治●文 text by Matsuoka Kenji

全日本プロレス50周年
実況アナウンサー・倉持隆夫が語る記憶に残る名勝負(1)

 ジャイアント馬場さんが1972年10月22日、東京・両国の日大講堂で旗揚げした全日本プロレスが50周年を迎える。

 全日本は、日本プロレスを退団した馬場さんを日本テレビが全面的にバックアップし、設立を後押しした団体だ。同局は1972年10月7日から、毎週土曜夜8時のゴールデンタイムで「全日本プロレス中継」をスタート。放送時間は移り変わったが、2000年6月21日までの27年8カ月にわたって、馬場さん、ジャンボ鶴田さん、天龍源一郎さん、三沢光晴さんの日本人選手、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・ファンクス、ミル・マスカラス、スタン・ハンセンら世界のスターレスラーの激闘を放送してきた。

テリー(下)に凶器攻撃を仕掛けるブッチャー photo by 木村盛綱/アフロテリー(下)に凶器攻撃を仕掛けるブッチャー photo by 木村盛綱/アフロこの記事に関連する写真を見る 徳光和夫さん、福沢朗さんなど多くのアナウンサーが実況を担当した中で、1974年から1990年3月まで16年間と、最も長くメイン実況を担当したのが倉持隆夫アナウンサーだ。

 倉持さんは、「全日本プロレス中継」にまつわる秘話を描いたノンフィクション『テレビはプロレスから始まった 全日本プロレス中継を作ったテレビマンたち』(福留崇広著。イーストプレス刊)で、実況時代のさまざまなエピソードを明かしている。今回はあらためて、今年で81歳を迎えた名アナウンサーに、今も記憶に残る名勝負を聞いた。

(以下、敬称略)

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 2001年に日本テレビを定年退職した倉持は、夫人と共にスペインのセビリアに移住。数年前に帰国し、現在は都内の自宅で暮らしている。そんな倉持が「全日本プロレス中継」での忘れられない試合のひとつに挙げたのは、1977年12月15日、蔵前国技館で行なわれた「世界オープンタッグ選手権」最終戦となるドリー&テリーの"ザ・ファンクス"vsアブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・シークの一戦を挙げた。

 この一戦は、1977年に全日本プロレスが初めて開催したタッグリーグ戦(全13戦)の最終戦だ。「オープンタッグ」は翌年から名称を「世界最強タッグ決定リーグ戦」に改め、その年の掉尾(ちょうび)を飾るシリーズとして現在も続いている。

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