女優とプロレスの二刀流を実現する志田光。「1年だけ」から始まったスターへの道 (2ページ目)
優等生だった自分を解放し、女優の道へ
志田は1988年、神奈川県高座郡寒川町に生まれた。父、母、5つ上の兄、3つ上の兄、ひとつ下の妹の6人家族。柔道の国体選手だった父の影響で、家族全員が柔道を始め、志田も3歳から柔道漬けの日々を送った。週3日は道場の練習があり、それとは別に家族で柔道場を借りて練習もした。
「夏休みはお父さんに筋トレメニューまで組まれていたし、『将来はスポーツ選手になるんだろうな』と思ってたんですけど、女優になりたいという夢もありました。子供の頃から承認欲求が強くて、柔道であれ、女優であれ、とにかく有名になりたかった」
柔道以外で、両親になにかを「やれ」と言われたことはない。しかし志田は根っからの優等生で、両親を困らせるようなことは一切しなかった。優秀な兄を見て育ち、勉強も自ら進んでやった。中学は柔道部がなかったため、剣道部に入部。クラスでは学級委員、部活では部長を務めた。
中学3年生の時、剣道に力を入れる公立高校からスカウトされた。やるなら高校3年間、とことん剣道に打ち込もうと決意。「大学進学前に1年浪人しよう」と決め、勉強は捨てて3年間、剣道しかしなかった。なによりも部活優先で、文化祭も体育祭も出ずに大会に出場。「青春した記憶がないですね」と笑う。
高校卒業後、浪人生活を送るなか、大学でやりたいことが見つからなかった。大学に行く意味はあるのだろうか? 本当にやりたいことってなんだろう? そうだ、女優になりたい! しかし、親の気持ちを考えたら踏み出せなかった。
そんなある日、映画『バッテリー』を観る。主題歌『春の風』の歌詞に感動し、心を動かされた。人生は一度しかない。大学に行かないで就職もできなかったとして、死ぬかと言ったら、いや、生きてはいける。だったらやりたいことをやらないとダメだよなと、志田は思った。
「その時、『ワガママに生きる』と決めたんです。それまで優等生だった自分を解放して、好きなように生きようと思いました。今でも悩むと、『ワガママに生きるって決めたから!』と、要所要所で自分に言い聞かせてます」
勉強はやめ、スカウトを狙って原宿や渋谷の街を歩いた。芸能事務所にスカウトされ、タレント活動をスタート。しかし両親には言い出せず、センター試験の日にわざと仕事を入れた。
センター試験当日、両親に「受けるのやめようかな」と言うと、「だと思った」と言われた。思えばいつだって、両親は志田を自由にさせてくれていた。勉強しろとも、テストの点を見せろとも言われたことがない。志田を縛っていたのは自分自身だったのだと気づいた。
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