バレエとアイドルで感じた絶望。女子レスラー中野たむは劣等感と闘い続けた (3ページ目)
バレエをやめて、しばらくは普通の学生生活を送っていた。生きている心地がしなかった。何をやってもつまらない。堕落した日々を過ごしたが、次第に「やっぱり私は、舞台に立って何かを表現しないと生きていけない」という思いが強まっていく。
高校卒業後、上京し、ミュージカルの専門学校に進学。卒業後はミュージカルの全国ツアーに参加する傍ら、インストラクターの仕事をした。ある時、所属していた事務所から「アイドルグループを始めるからやってみないか」と声を掛けられた。アイドルに興味はなかった。舐めていた部分もあった。
「アイドルなんて愛想を振りまいて、キャッキャしてるだけじゃんって。なのでお断りしたんですけど、よく考えたら、歌って踊って、人に夢を与えるという点ではバレエやミュージカルと同じなのかなと思って、やってみることにしたんです」
プロレスをやる前にはアイドルとして活動していた photo by Hayashi Yuba 2012年11月、「カタモミ女子」のリーダーとしてアイドルデビュー。所謂、地下アイドルだ。卒業後は「インフォメイト」を結成するも、ライブをすればひとりのメンバーに対してファンがひとりという時もあった。「3対3の合コンみたいな感じだった」と笑う。
「インフォメイトもプロデューサーが2回"飛んだ"りして、半年で解散しました。やっぱり頑張るだけじゃ駄目な世界なんだ。自分にはバレエと同じく無理な世界だったんだなと思いました。苦しかったですね」
2015年5月、"プロレス"と"女優"を掛け合わせた「アクトレスガールズ」の練習生となる。プロレスはインフォメイト時代にZERO1の興行で歌ったことがあり、一度だけ観戦したことがある。本部席に座り「喋って」と言われたが、怖くて声も出せずに泣いた。
「私は、運動神経はよくなかったです。学校の成績はオール5だったんですけど、体育だけ2でした。身体能力が高いわけじゃないんです」
しかしFMWに参戦すると、大仁田厚に素質を見出された。「大仁田厚最後の継承者」と呼ばれ、大仁田厚&中野たむプロデュース興行を開催。ミス・モンゴルと抗争を繰り広げ、爆破バットで殴られて病院に搬送されたこともある。
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