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【国際プロレス伝】団体崩壊後の日々
寺西勇とアニマルはともに戦った (4ページ目)

  • 宮崎俊哉●取材・文 text by Miyazaki Toshiya
  • photo by AFLO

 浜口と長州がジャパンプロレスを結成し、全日本プロレスを主戦場とすると、寺西もそのまま合流。1985年7月18日、後楽園ホールにおいて寺西勇&アニマル浜口組は佐藤昭雄&石川隆士組を破り、第40代アジアタッグ王者となった。

「国際プロレスがなくなってから、寺西さんとはずっと一緒にやってきたので、ふたりでタイトルを獲ったときはうれしかったですね。僕自身は国際時代、マイティ井上さんとアジアタッグ王者(第32代)に就いていますが、それとは別の思いがありました。寺西さんというレスラーは、パートナーを引き立てるのが上手でね。何度も助けられたし、一緒にやっていて楽しかったですよ。僕はつくづく思うんですけど、プロレスも人生も同じ。タッグを組んだら、パートナーを生かさないと」

 ジャパンプロレス崩壊後、寺西は全日本プロレス入りするも、1992年に頸椎(けいつい)を痛めて引退。その後、スタッフとして働いていたが、1994年に維新軍やジャパンプロレス、全日本プロレスでともに歩んだ谷津嘉章が設立したSPWF(社会人プロレスリング連盟。のちにスーパープロレスリング連盟に改称)で復帰。1998年にはデビュー30周年記念興行を行なった。

「プロレス界を離れてからは、建設関係の仕事をされているようです。一緒にやっていたころは家族ぐるみの付き合いでね。奥さんや子どもさんもよく、浅草に遊びに来られていました。うちも子どもがふたりいますから、みんなで食事したり、神奈川や千葉の海へ遊びに行ったものです。今もときどき、家内と寺西さんの話をしますよ。いつまでも元気でいてほしいですね」

(つづく)
【連載】アニマル浜口が語る「国際プロレスとはなんだ?」

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