【国際プロレス伝】阿修羅・原の身体能力にアニマルは度肝を抜かれた

  • 宮崎俊哉●取材・文 text by Miyazaki Toshiya
  • photo by AFLO

【第23回】アニマル浜口が語る「国際プロレスとはなんだ?」

若かりしころの阿修羅・原若かりしころの阿修羅・原 鍛え上げた身体でラグビー日本代表として名を馳せ、1976年には日本人初の世界選抜メンバーにも選出された原進(はら・すすむ)。30歳でのラグビー引退を機に、国際プロレスの次期エースと期待されて入門した。リングネーム「阿修羅・原」は作家・野坂昭如(あきゆき)が命名。国際プロレス解散後も全日本プロレス、SWS、WARで活躍し、天龍源一郎とのタッグ「龍原砲」でプロレス界に一時代を築き上げた。「野生のダンプガイ」「和製チャールズ・ブロンソン」と呼ばれた男の素顔をアニマル浜口が語る。

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「和製チャールズ・ブロンソン」阿修羅・原(1)

 中学・高校時代に柔道と相撲に励んでいた原進は、長崎県立諫早(いさはや)農業高校2年のときにラグビーへ転向すると、あっという間に頭角を現した。そして東洋大学を経て近鉄に入社し、その1年後には日本代表にも選出。1970年3月22日、東京・秩父宮ラグビー場で行なわれたブリティッシュ・コロンビア代表とのテストマッチに出場した。

 当初のポジションはナンバー8。しかし、1971年に来日したイングランド代表とのテストマッチ(9月24日/大阪・近鉄花園ラグビー場、9月28日/東京・秩父宮ラグビー場)にて、名将・大西鐡之祐(おおにし・てつのすけ)日本代表監督にプロップへのコンバートを命じられ、原は強豪相手にスクラムで互角の戦いを繰り広げた。

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