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女子バレー日本代表・宮下遥があらためて振り返る現役生活 印象に残った3つのシーン、人生を変えた人とは? (4ページ目)

  • 中西美雁●取材・文 text by Nakanishi Mikari

――そこで気持ちを切り替えたんですね。

宮下:先輩たちは本当に「どうせ負ける」と思っていたわけではなかったと思いますし、そう声をかけたら、みんながいい意味で開き直ってくれるかもしれないという狙いもあったかもしれません。私はその言葉を"どストレート"に受け取りました。「どうせ負けるなら、やりきって終わったほうがスッキリする」と胸に刺さって、「よし、勝たなきゃだめだと思うと絶対に硬くなるから、いい感じで負けよう」みたいな感じで開き直りました(笑)。

 結果的に3―0で勝てたんですが、すべての選手が最初から最後まですごい集中力を保っていて、ボールがノータッチではコートに落ちないぐらいでした。久光さんがどれだけ攻めてきても、ブロックやレシーブに引っ掛けてつないでいきました。

 当時の岡山はミドルの山口舞さんを軸にディフェンスからリズムを作って、相手が嫌になってミスが出る、というスタイルだったんですが、それをそのまんま出せた試合でした。私のなかでは「やりきった」という思いがあって、試合が終わっても勝ったのか負けたのかわからないような放心状態でした。2週間後に優勝決定戦があるのを忘れるくらい、"やりきった感"がありました。

――確かに、「岡山はあそこで気力を出し尽くしちゃったかな」と見えました。

宮下:決勝の久光戦は負けてしまったんですが、私がトヨタ車体戦でサーブミスさえしなければ、決勝でいい試合ができて勝つことができたかもしれない。いいことと悪いことが、ぎゅっと詰め込まれたセミファイナルだったので、すごく印象に残っています。

【自らを育ててくれた人たち】

――続いては、「人生を変えた人」を教えてください。やはり、中学のバレー部の監督でもあった、岡山の河本昭義監督でしょうか。

宮下:監督は一番ですけど、すでにいろんなところで話してるので、今さら挙げても面白くないですよね(笑)。大事な人はいっぱいいるんですが、中学の時のコーチであり、シーガルズのマネージャーでもある平田真澄さんもそうです。中学時代は寮生活で、平田さんも一緒に住んでいたので、私たちのちょっとした変化もすごく気づいてくれた。親元を離れて、「寂しいな」ってなっている時も、いろいろ気を遣ってくれました。

 シーガルズの選手が(通っていた高校があった)大阪に来た時には、「遥のこと、元気づけてあげてくれへん?」と言ってくれて、寮に選手が2、3人来てくれたこともありました。ただ、バレーボールのこととなるとすごく厳しかったですね。

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