女子バレー全日本の徹底したソウル五輪対策。「仮想・ソ連」戦に負けたあと、ハサミとキリを持った指揮官の行動に大林素子は絶句した (5ページ目)
――責任を全部負うような形になって、代表でのプレーが嫌になることはありませんでしたか?
「その頃の代表選手、特にスタメンを張る選手の気持ちの強さは他の選手とは段違いでしたから、プレーをやめると考えることもなかったですね。代表選手ならバレーに限らず、スポーツは楽しむものではなくて、国の威信を背負ってやるもの。当時はそれが普通だったので、勝つことを目指すのが当たり前だと思っていました。そこまでの精神で戦っていたのは私たちの世代が最後かもしれませんね。
私はソウルを含めて3大会連続でオリンピックに出て、メダルは獲れませんでしたが、すべての大会で自分がエースと思って戦いました。(かつて全日本男子の監督などを務めていた)松平康隆さんには『スーパーエース』と呼んでいただきましたが、自分がすべてを背負う覚悟で大会に臨んでいた。女子の代表チームのメダルなしの歴史は、ロンドン五輪で後輩たちが止めて再び時を動かしてくれましたが、それを途切れさせてしまった選手としての悔しさは今でも残っています」
(連載5:プロ契約を望んだ大林素子と吉原知子に「荷物をまとめて出ていけ」。解雇騒動のなか、救ってくれたのは三浦知良からの言葉>>)
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