プロ契約を望んだ大林素子と吉原知子に「荷物をまとめて出ていけ」。解雇騒動のなか、救ってくれたのは三浦知良からの言葉
(連載4:女子バレー全日本の徹底したソウル五輪対策。「仮想・ソ連」戦に負けたあと、ハサミとキリを持った指揮官の行動に絶句した>>)
日本女子バレーボール元日本代表で、現在はタレントやスポーツキャスター、日本バレーボール協会の広報委員としても活躍する大林素子さんに、自身のバレー人生を振り返ってもらう短期連載。第5回は、日本バレー界のプロ化を巡る騒動、大林さんの運命を大きく変えた"解雇騒動"について聞いた。
日立に解雇された大林素子(中央)、吉原知子(左)と、当時の日本バレーボール協会会長・松平康隆氏(右)この記事に関連する写真を見る***
――大林さんは1992年のバルセロナ五輪にも出場しますが、2大会連続でメダルを逃すことになります。
「バルセロナ五輪は米田一典監督が指揮を執り、山田重雄監督(ソウル五輪後に退任)のバレーの集大成的な大会で、(中田)久美さんも引退を決めていた。私もメンバーのなかでは上のほうの世代でしたから、『ここでメダルが獲れなかったらもう無理だ』と思っていました。さまざまなものをかけて大会に臨みましたが、結果にはつながりませんでしたね。
この大会あたりから、全日本のメンバーは日立の選手たちだけでなく、他のチームとの混合になっていきます。海外チームではブラジルが台頭し、キューバなどが圧倒的な強さを誇るようになっていきました。バレーのリーグとしては、イタリアにできたでセリエAで海外のトッププレーヤーたちがプレーしていた。世界トップクラスのリーグで力を磨いた選手たちが、代表チームにそれを還元して強くなっていく。そんな流れができていましたから、『このままでは日本は勝てない』と思うようになりました」
――そんななか、日本でもバレーのプロリーグ化が進められていきます。
「前年に開幕したJリーグのあとを追う形で、プロリーグを作ってやっていこうという流れですね。山田先生もリーグ創設に尽力したひとりですが......組織のなかで"足の引っ張り合い"があり、結果としてそこから離れざるを得なくなってしまう。そこからバレー界の崩壊が始まったように思います」
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