プロ契約を望んだ大林素子と吉原知子に「荷物をまとめて出ていけ」。解雇騒動のなか、救ってくれたのは三浦知良からの言葉 (2ページ目)

  • 中西美雁●取材・文 text by Nakanishi Mikari
  • photo by 日刊スポーツ/アフロ

いきなりの解雇宣告

――結局は、リーグの名称が「Vリーグ」に変わったもののプロ化の話は流れてしまいます。そしてVリーグ開幕前には、大林さんと吉原知子さんのプロ契約を巡る動きが大きな話題になりました。当時はまだ日本人のプロ選手がいませんでしたが、どういった思いからプロ契約を意識したんですか?

「『プロ選手として活動したい』という気持ちは、バルセロナ五輪のあと、イタリアで行なわれた世界クラブ選手権に日立の一員として出場した時に芽生えました。当時のイタリアは、代表チーム自体はそんなに強くなかった。でも、先ほども言ったようにセリエAには世界トップクラスの選手が参加していたこともあって、クラブ選手権ではイタリアのクラブチームに敗れてしまったんです。

 地元の圧倒的な応援があったとはいえ、負けるとは思っていませんでした。そこで、バルセロナ五輪後に感じた『このままではいけない』という危機感を、選手個人としても痛感したので、プロ選手としてプレーすることを考えるようになりました」

――ただ、その動きは"解雇騒動"に発展することになります。

「そうですね。世界クラブ選手権で負けた衝撃が冷めやらぬなか、1993年に山田先生から『ヤオハンという企業がプロチームを作るのでぜひ来てほしい』というお話をいただきました。『3年契約で5000万円』という具体的な金額まで出してもらったので悩みましたが、『日立でプロ契約できるならそれが一番』と思ったので、そのお話はお断りしたんです。

 そのあと、私と吉原知子を含めた9名が、プロ化を求めて日立に辞表を出します。すると日立側から『今季にすぐプロ契約をすることは無理だが、次のリーグから考える』と返答があったので、私たちは全員辞表を撤回することになります。それらを口約束でとどめるんじゃなく、契約書を作っておけばよかったと後悔しています。私たちも若かったですからね......。

 その後、日立の単独チームで香港カップを戦ってヤオハンにも勝ち、来季のプロ化に向けつつ、『今季は日立としてVリーグ開幕年をしっかりと迎えよう』と気持ちを切り替えていました。開幕直前のパーティーにも呼ばれて、トモ(吉原知子)とふたりで『頑張ります!』と笑顔で話していたんですが......。いきなり2人とも解雇を告げられることになります」

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