大林素子が切り開いたアスリートの新たなセカンドキャリア。タレント、舞台......今後も「たくさんの夢に向かって全力」

  • 中西美雁●取材・文 text by Nakanishi Mikari
  • photo by 立松尚積

日本女子バレー界のレジェンド
大林素子インタビュー(6)

(連載5:プロ契約を望んだ大林素子と吉原知子に「荷物をまとめて出ていけ」。救ってくれたのは三浦知良からの言葉>>)

 日本女子バレーボール元日本代表で、現在はタレントやスポーツキャスター、日本バレーボール協会の広報委員としても活躍する大林素子さんに、自身のバレー人生を振り返ってもらう短期連載。最終回となる第6回は、イタリアでのプレー後に日本で迎えた現役引退、バレー界にとどまらないセカンドキャリアについて聞いた。

現役引退後、さまざまなジャンルで活躍を続ける大林さん現役引退後、さまざまなジャンルで活躍を続ける大林さんこの記事に関連する写真を見る***

――大林さんはイタリアで日本人初のプロ選手としてプレーしたあと、日本に戻って東洋紡オーキスに入団します。メディアでは「強豪のダイエーアタッカーズに入るのでは」と報じられていましたね。

「当時は、日本のクラブチームに登録していないと、日本代表に選ばれることはありませんでした。だからアトランタ五輪に出場するためには、日本のチームに所属しなくてはならず、帰国を決意したんです。複数のチームからお話をいただきましたが、東洋紡オーキスと契約することにしました。

 日本でもプロとしてプレーさせてくれるチームというのが最優先でしたが、イタリアに渡る前に本当にいろいろな経験をしたので、『次に日本でプレーする時は、本当に自分を必要としてくれるチームに行こう』と決めていて、東洋紡にそれを感じました。2部から1部に上がったばかりの東洋紡は若い選手が多く、『自分の経験してきたものを伝えたい』という思いもありました」

――1996年には3度目のオリンピック、アトランタ五輪に出場。しかし、予選ラウンドで敗退して9位。順位としては低迷してしまいました。

「この時は本当に体が満身創痍でした。試合ごとに痛み止めの注射をして、薬を飲み、テーピング。結果につながらない思いも抱えながら、自分の"今の力"を感じていましたね」

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