【バレー】佐野優子が現役引退。世界一のリベロが残したもの (2ページ目)
ポジションはレシーバー。入社して1年目に、リベロというポジションができた。小さな選手にも活躍の場を与えるために作られたポジションだった。佐野はもちろんリベロになった。それまでのレシーバーだと、各1セットで1回、後衛3ローテしか出番がなかったが、リベロは後衛の選手と、いつでも何度でも自由に交代できる。1試合を通してコートの上に立ち続けることができるようになったのだ。
「(リベロというポジションが)できた当初はそんなに思わなかったんですけど、今から考えると、本当にすごく運が良かったですね。タイミングがよかったというか」
Vリーグにデビューした頃の佐野は、同じチーム(ユニチカ)の先輩だった熊前知加子にコート上で手を取って深呼吸させられていたくらい、緊張でガチガチだった。2002年には全日本にも選出され、2003年ワールドカップでは初々しい姿で観客を魅了した。広瀬美代子以来のレシーブヒロインが生まれた大会だった。
「あんな大勢のお客さんの前でプレイするのは初めてで、本当に緊張しましたね。無我夢中でした」と苦笑い。前年の世界選手権で史上最低の成績となり、どん底だった全日本女子は、この大会で息を吹き返し、そのままの勢いでアテネ五輪の出場権をもぎ取った。
しかし、佐野自身はアテネには行けなかった。オリンピック最終予選直前の選考で、テレビカメラが回る前で、佐野は落選を言い渡された。
「あの時は、もう何も考えられなくなって。その前に東レを退社して、移籍同意書がもらえなくて協会所属ということになっていたのですけど、なかなか練習する場所もなくて」
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