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「錦織二世」と呼ばれた後輩・内山靖崇が練習を見て驚愕 「フォアハンドのスイングスピードがもう、速すぎて......」 (2ページ目)

  • 内田 暁●取材・文 text by Akatsuki Uchida

【小学校時代はタイトルを総なめ】

 子どもの頃から体が大きく、身体的才能に恵まれたのに加え、スキーで養ったバランス感覚もよかったのだろう。内山は小学5年生にして、道内の同世代では敵知らずとなった。全国小学生テニス選手権や全日本ジュニア12歳以下でも、ベスト4入りするまでに急成長。『修造チャレンジ』に初めて呼ばれたのも、この頃である。

「年下なのに周囲より体は大きかったので、修造さんたちの目にもつきやすかったのでしょうね」と、内山は控えめに笑う。小学6年生の時には、身長は170cm以上に。恵まれた体躯を生かし、全国タイトルを総なめにした。

 ただ『修造チャレンジ』や『盛田正明テニス・ファンド』などでエリート集団に混じるたび、内山は微かなコンプレックスを覚えたという。体が大きいために高校生に交じってトレーニングをするが、ついていけるはずもない。技術面でも、未修得な部分が多々ある。

 周囲が内山に錦織の逸話を多く語ったのは、大器に寄せる期待ゆえだっただろう。実際に内山は、『錦織二世』と呼ばれたこともあった。

 ただ、そんな評価とは裏腹に、当時の内山は「自分はテニスに向いてない。強くはなれないんだろうなと思っていた」と打ち明ける。

 それでも、中学1年生の時に盛田ファンド生として米国のIMGアカデミーに行ったのは、「北海道では、環境的に強くなるには限界がある」と感じたから。

 IMGに行くか、テニスの道をあきらめるか──。それほどの背水の陣で向かった新天地であった。

 内山がIMGアカデミーを正式に拠点としたのは、中学1年生の9月。その半年前の「お試し合宿」で来た時に親切にしてくれた喜多氏や富田氏は、すでに日本に帰っていた。

 内山が渡米した時、IMGには錦織以外にも、元世界32位の奈良くるみ氏と、同世代の少女がもうひとりいた。

 盛田正明ファンド生は、日本人専属コーチの指導を受けるのが慣例だった。ただ、内山が渡った当時、そこに錦織の姿はなかった。

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