大坂なおみと母との絆、テニスの原点。「いつだって私を笑わせてくれる」 (2ページ目)
だから嫌になって、途中であきらめちゃう子たちもいる。そういう子どももいっぱい見てきた......と環さんは続けた。
テニスコートでは、年長で先に上達する姉のほうに、どうしても父親の目は行きがちだろう。だからこそ母は、妹の心中に注意を向けたのかもしれない。
「お姉ちゃんは負けると時々、すごく落ち込んでいたの。そんな時、お父さんは『そんなにシリアスになることはないよ。単なるテニスじゃないか』って言った。そして、お母さんはどんな時にも、私たちをハッピーな気持ちにしてくれる。『そうよ、それでこそ私の娘よ!』ってね。お母さんはいつでも、私たちがやるべきことをやるかぎり、全力でサポートしてくれる」
幼き日から変わらぬ母の姿勢を、なおみはそう回想する。
ちなみに、「お母さんが方向性を決め、お父さんが細かいことを教えてくれるというのが、私の家族のルール」だと、大坂家の次女は規定した。
母が決めた「方向性」を指標としたなおみは、ジュニア大会には出ることなく、14歳から姉とともにプロサーキットを転戦しはじめた。
今でも「人生で最もうれしい勝利」と述懐する、姉からの勝利を下部大会で手にしたのは16歳の時。そのわずか半年後には、カリフォルニア開催のWTAツアー大会で、当時世界19位のサム・ストーサー(オーストラリア)を破り、一気に「次代の旗手候補」と注目されるまでになる。
「大阪で生まれた人は、みんなオオサカさんになるのよ」とジョークを飛ばしたのは、この勝利後の会見でのこと。大坂のユーモラスな性格と同時に、当時16歳の少女がいかにアメリカのテニス関係者の間でも無名だったかを物語るエピソードだ。
それから4年後----。彼女は、幼少期からの「USオープンの決勝で、憧れのセリーナ・ウィリアムズ(アメリカ)を破り優勝する」という夢を、自らの手で実現する。
勝利を決めたなおみが駆け寄るファミリーボックスには、子どもの頃は「試合を見に来られなかった」母の姿があった。母親は左手で目頭を押さえて涙をぬぐい、右手でなおみの肩を抱く。抱擁の中で小さな子どものように泣きじゃくるなおみの頬を、母は左手で優しくなでた。
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