ラグビー田中史朗が歴史的勝利を挙げた2015年W杯南アフリカ戦を振り返る「恐れることはなかった」 (3ページ目)

  • 齋藤龍太郎●文 text by Saito Ryutaro

【代表はもう無理だな】

──日本代表はプール戦全勝で1位通過を決め、初の決勝トーナメント進出、8強入りを成し遂げました。

 大会を終えた当時、正直に言うと「代表はもう無理だな」と思っていました。体が動かなくなってきた感覚があったのと、いいスクラムハーフがいっぱいいたので、仮に代表に呼ばれたとしても中途半端なパフォーマンスでは行けないなと思っていました。

──ご自身として一番いいコンディションで臨めたと感じたW杯はどの大会でしたか?

 体の面では2011年大会ですね。ただ、メンタルの部分も合わせれば、経験も積み重ねていた2015年大会が一番よかったと思います。

──2023年のフランス大会は日本代表には選出されませんでしたが、テレビの解説などの関係で渡仏され、現地で試合をご覧になりました。

 残念な大会でした(日本代表は22敗でプール戦敗退)。練習では激しいコンタクトをしていましたが、全試合ラスト20分のパフォーマンスが落ちてしまいました。イングランド戦(●12-34)やアルゼンチン戦(●27-39)は特にそうですね。コンタクトも大事なのですが、やはり日本代表は80分間やりきるフィットネスを継続して強化しないといけない、とあらためて感じました。

──今後も「日本代表はこうあるべき」という思い、考えを発信していただきたいです。

 だんだんオッサンになっていくので(笑)、どこまで正しいことが言い続けられるかはわかりませんが、自分たちの代の経験をもとに、たとえば「メンタル面ではもっとこうしてほしい」といった話は今後もしていきたいと思っています。

Profile
田中史朗(たなか・ふみあき)
1985年13日生まれ、京都府京都市出身。日本代表75キャップ。小4 でラグビーと出合い、中学で本格的に競技を始める。伏見工業(現・京都工学院高校)でスクラムハーフとして成長し、1年時に花園優勝、3年時は花園ベスト4。京都産業大学時代にはニュージーランド留学を経験するなどさらに成長し、2007年に三洋電機(のちのパナソニック。現・埼玉ワイルドナイツ)でトップリーグ(現・リーグワン)デビュー。翌2008年に日本代表初選出。2013年、ニュージーランドのハイランダーズと契約し日本人初のスーパーラグビープレーヤーとなり、3シーズン目の2015年は優勝メンバーに。ラグビーW杯は2011年大会から3大会連続出場。2015年大会で歴史的勝利を収めた南アフリカ戦でプレーヤー・オブ・ザ・マッチに。2019年の日本大会では日本代表初の決勝トーナメント進出に貢献した。リーグワン2023-24シーズン終了をもって現役を引退。

著者プロフィール

  • 齋藤龍太郎

    齋藤龍太郎 (さいとう・りゅうたろう)

    編集者、ライター、フォトグラファー。1976年、東京都生まれ。明治大学在学中にラグビーの魅力にとりつかれ、卒業後、入社した出版社でラグビーのムック、書籍を手がける。2015年に独立し、編集プロダクション「楕円銀河」を設立。世界各地でラグビーを取材し、さまざまなメディアに寄稿中。著書に『オールブラックス・プライド』(東邦出版)。

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