どん底のスタートから花園優勝・2冠達成 桐蔭学園はいかにして「東の横綱」に返り咲くことができたのか (2ページ目)

  • 斉藤健仁●取材・文 text by Saito Kenji

【サトケンに憧れて茨城から神奈川の名門校へ進学】

 今季の桐蔭学園は、『徹』という一文字をスローガンに掲げて臨んだ。

「昨季の予選決勝では、自分たちのゲームプランに徹することができなかった。徹することができる実力がないと、日本一になることができない」(城)

 その思いを貫いた結果、東福岡戦では「シンプルに身体をバチバチ当てて、自陣からでも継続して自分たちのラグビーをしよう」(城)とゲームプランに徹することができたことで、悲願の優勝をたぐり寄せたのだ。

 キャプテンの城は、茨城県守谷市出身。小さい頃は父の影響でサッカーをやっていたが「身体が大きくてすぐ反則になってしまった(苦笑)」と、小学2年から常総ジュニアラグビーフットボールクラブで競技を始めた。中学時代は南茨城ラグビースクールに在籍し、流通経済大柏(千葉)主将のCTB阿部煌生(こうき/3年)や目黒学院(東京第2)主将のLO中村つぐ希(3年)とともにプレーしていた。

 茗渓学園(茨城)や流通経済大柏といった全国的な強豪校が近郊にあり、実家から通うこともできた。それでも花園で連覇を達成した佐藤健次(早稲田大3年/No.8)の姿に憧れて、「どうせやるなら、日本で一番のところでやりたい!」と親もとを離れて神奈川の桐蔭学園に進学した。

 中学時代は主にPRだったが、高校からはバックローに転校。高校1年の終わりには主力No.8として春の選抜大会でベスト4に貢献し、高校2年生ながら高校日本代表候補にも選ばれるなど「世代トップクラス」の選手へと成長した。

 しかし、2022年11月の花園予選決勝で、桐蔭学園は東海大相模相手に敗北。花園連続出場を7でストップさせて城は「無力さを感じた」という。そんな悔しさがあったからこそ、新チームが例年より1カ月早くスタートした時、自らキャプテンに名乗りを挙げた。

 新チームとなった桐蔭学園は、まずは基本を徹底した。藤原秀之監督が選手に「変化球の前に、いい直球を磨かないと通用しない」と説き、ウェイトトレーニング、1対1やラックといったコンタクト、アタック&ディフェンスのセットスピードを磨いた。

 その基本を見直した結果、春の選抜大会は強豪校を圧倒的な強さで破って優勝。「全国の強豪とわたり合える自信がついた」(城)。ただ、秋の国体では神奈川県代表(主軸は桐蔭学園)として出場するも、福岡県代表(主軸は東福岡)に決勝で敗れた。それでも、城主将は「自分たちの弱さを再確認できた。この敗戦で空気が引き締まった」と前向きに捉えた。

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