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NBA伝説の名選手:アレックス・イングリッシュ 史上初の8年連続2000得点以上をマークした1980年代を代表する優雅なスコアラー

  • 青木 崇●文 text by Aoki Takashi

1982-83にNBAの得点王に輝いたイングリッシュ photo by Getty Images1982-83にNBAの得点王に輝いたイングリッシュ photo by Getty Images

NBAレジェンズ連載36:アレックス・イングリッシュ

プロバスケットボール最高峰のNBA史に名を刻んだ偉大な選手たち。その輝きは、時を超えても色褪せることはない。世界中の人々の記憶に残るケイジャーたちの軌跡を振り返る。

第36回は、1980年代にデンバー・ナゲッツで一時代を築き、リーグ得点王にも輝いたアレックス・イングリッシュを紹介する。

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【ナゲッツ移籍でリーグ屈指の点取り屋に】

 マイケル・ジョーダンほどのインパクトこそなかったが、203cmのスモール・フォワード、アレックス・イングリッシュは、NBAの歴史に名を刻むすばらしいスコアラーだった。1980年2月1日のトレードで、インディアナ・ペイサーズからデンバー・ナゲッツに移籍して以降、10シーズン連続で平均20点以上を記録していたことが、偉大な選手だった証明と言える。

 サウスカロライナ州コロンビア出身のイングリッシュは、その性格とプレースタイルの両方を形成するうえでさまざまな困難に直面しながらも、質素な家庭で育ったことがプラスに働き、規律と勤勉さを重んじられる幼少期を過ごした。子どものころから物静かで思慮深く、騒々しく派手なプレースタイルではなかったが、集中力と強い決意、常に改善して成長することを熱望していた。運動能力でプレーグラウンドを支配した多くの将来のNBAスターたちと異なり、ファンダメンタルの反復でスキルを磨いていったのである。

 ドレアー高校時代のイングリッシュは、滑らかなシューティングタッチと優雅なプレーをすることから、徐々にNCAAディビジョンIの強豪大学から興味を持たれるようになっていく。

しかし、地元に残ることを決意して1972年の秋にサウスカロライナ大に進学。1年生の時から35分以上の出場時間を得る主力選手となると、4年時の1975-76シーズンは全米11位の平均22.6得点を記録。3ポイントショットがなかった時代の4年間で通算1972点はチーム史上2位、1064リバウンドが3位という功績を残した。

 英語の学位を取得し大学を卒業したイングリッシュは、1976年のNBAドラフトでミルウォーキー・バックスから2巡目23位で指名され入団。しかし、バックスはディフェンス重視のチームであり、オフェンスのシステムもイングリッシュの得点力を活用できないものだった。2年目の1977-78シーズンにイングリッシュは18.9分の出場時間で平均9.6得点を記録したが、フリーエージェントになるとペイサーズと契約する。

 低迷からの再建を目指すペイサーズで出場機会を得たイングリッシュは、平均16.0得点、8.1リバウンドと活躍。特にミッドレンジのジャンプショットは精度が高いことに加え、チームプレーを重視する姿勢も評価されるようになった。そして、1980年2月1日にジョージ・マギニス(ペイサーズがABAでプレーしていたころのスター選手)と交換でナゲッツへトレードされたことは、イングリッシュのNBAキャリアの分岐点になる。

「私はインディアナで、いいスタッツを出していた。それはまさに、ナゲッツが私のためにトレードしたかった理由だ。私はオールラウンドな選手であり、リバウンド、ブロックショット、パスもできた。平均は16得点、8〜9リバウンド。しかし、デンバーで起こったことはヘッドコーチ(HC)のダグ・モーのおかげだ。彼はアップテンポのオフェンスで最高のコーチだった」

 イングリッシュがこう語ったように、モーHCは速いボールムーブメントとハイスコアゲームを重視したアップテンポなオフェンスを展開。このスタイルはイングリッシュのスムーズで効率的に得点するプレースタイルに最適なシステムだった。イングリッシュはナゲッツ移籍後の24試合で平均得点を21.3まで伸ばしたことからも、それは明らかだった。

1980-81シーズン以降はナゲッツの得点源となり、1982-83シーズンに平均28.4点でリーグの得点王にまで上り詰めた。1985年11月19日のヒューストン・ロケッツ戦では、3Pショットを1本も打たずに自己最多となる54点を記録している。

 フィジカルの強さを身体能力の高さではなく、滑らかな動きとシュート力を武器にNBA屈指のスコアラーとなったイングリッシュは、8年連続でオールスター選出。36歳になった1989−90シーズンでも平均17.9点、1990年2月7日のニュージャージー・ネッツ戦では38点を記録してチームを勝利に導いた。

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著者プロフィール

  • 青木 崇

    青木 崇 (あおき・たかし)

    1968年群馬県前橋市生まれ。1992年から月刊バスケットボールとHOOP誌の編集者を務めた後、1998年に独立して渡米。アメリカ・ミシガン州を拠点にNBA、NCAA、数々のFIBA国際大会を取材。2011年から拠点を日本に戻して活動を続け、Bリーグの試合で解説者も務めている。

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