NBA伝説の名選手:ケビン・ジョンソン 1990年代を代表する「KJ」の愛称で親しまれたスピードガード (3ページ目)

  • 青木 崇●文 text by Aoki Takashi

【最後までフェニックスで】

 1994年と1995年のプレーオフでは、ともに最終7戦までもつれたカンファレンス準決勝でヒューストン・ロケッツを倒すことができなかった。

 ジョンソンは1994年の第4戦では当時、リーグナンバーワンセンターとして君臨していたアキーム・オラジュワンの上から豪快なダンクを叩き込むなど、ロケッツとのシリーズでは26.7得点(1994年)、27.9点(1995年)と活躍。しかしチームは、1994年がアウェーで2連勝発進、1995年が3勝1敗と王手をかけて優位に立ちながら、いずれも逆転を許して負けたのである。特に第5戦から3連敗を喫した1995年の敗北は、ジョンソンにとって非常に悔いの残る結果になった。

「あの数年間は優勝できると信じていたし、そのとおりになっていた。ロケッツとのシリーズで立て続けにあのような負け方をしたことは、チャンスを逃したように感じた」

 ジョンソンは1996年から3年連続でプレーオフ1回戦を突破できず、1998年に現役引退を決断した。ところが2000年3月には、サンズの先発ポイントガードのジェイソン・キッドが戦線離脱したことから、元サンズのヘッドコーチで親交の深かったコットン・フィッツシモンズの要望に応えて現役復帰。プレーオフ1回戦でスパーズを3勝1敗で倒すのに貢献したが、カンファレンス準決勝でレイカーズに1勝4敗で敗れたあと、ジョンソンは12シーズン過ごしたNBAキャリアに終止符を打った。

「幸運にもフェニックスのすばらしい組織でプレーし、長きにわたるキャリアを積むことができた。振り返ってみても、後悔はない。コート上で全力を尽くしたんだ」

 カリフォルニア大学バークレーで政治学を専攻し、NBA選手になってからセント・ホープアカデミーを設立するなど、ジョンソンは教育改革に力を入れていた。現役引退後は、元ニューヨーク・ニックスのビル・ブラッドリーと同じく、NBAオールスターという実績を持つ選手から政治家に転身。2008年5月にサクラメントの市長選出馬を決断し、決選投票で57.4%の得票数を得たことで当選。2012年にも再選し、市長を8年間務めた。市長退任後のジョンソンは、政治とほとんど関わらなくなったが、地域発展の活動を継続する人生を送っている。

【Profile】ケビン・ジョンソン(Kevin Johnson)/1966年3月4日生まれ、アメリカ・カリフォルニア州出身。1987年NBAドラフト1巡目7位指名。
●NBA所属歴:クリーブランド・キャバリアーズ(1987-88)―フェニックス・サンズ(1987-88途〜1996-97、1997-98、1999-2000)
●NBAファイナル進出1回(1993)/MIP1回(1989)

*所属歴以外のシーズン表記は後年(1979-80=1980)

著者プロフィール

  • 青木 崇

    青木 崇 (あおき・たかし)

    1968年群馬県前橋市生まれ。1992年から月刊バスケットボールとHOOP誌の編集者を務めた後、1998年に独立して渡米。アメリカ・ミシガン州を拠点にNBA、NCAA、数々のFIBA国際大会を取材。2011年から拠点を日本に戻して活動を続け、Bリーグの試合で解説者も務めている。

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