【Jリーグ】ストイコビッチは怒りを全身から放っていた 名将オシムと重ねて見えたピクシーの監督論
Jリーグ懐かしの助っ人外国人選手たち
【第38回】ドラガン・ストイコビッチ
(名古屋グランパスエイト)
Jリーグ30数年の歩みは、「助っ人外国人」の歴史でもある。ある者はプロフェッショナリズムの伝道者として、ある者はタイトル獲得のキーマンとして、またある者は観衆を魅了するアーティストとして、Jリーグの競技力向上とサッカー文化の浸透に寄与した。Jリーグの歴史に刻印された外国人選手を、1993年の開幕当時から取材を続けている戸塚啓氏が紹介する。
第38回は「ピクシー」ことドラガン・ストイコビッチを取り上げる。Jリーグ開幕直後の1994年に半年契約で来日し、アーセン・ベンゲルとの出会いをきっかけにキャリアの絶頂期を日本へ捧げることになったのは、すでによく知られているところだ。
Jリーグを代表する外国人選手として、記録にも記憶にもその名を刻み、監督としてもグランパスにタイトルをもたらした。選手としても監督としても数多くのエピソードとともに語られてきているが、ここでは僕が立ち会ったある1日を紹介したい。
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ストイコビッチ/1965年3月3日生まれ、セルビア(旧ユーゴスラビア)ニシュ出身 photo by AFLOこの記事に関連する写真を見る 今でも背筋がぞっとするような記憶がある。
「ちょっと今日は、難しい取材になるかもしれません」
名古屋グランパスのクラブハウスに着くと、広報担当者が難しい表情を浮かべて告げてきた。シンプルに言ってしまえば、機嫌が悪い、と。2011年7月のある日のことである。誰にとっても記憶に残らないような一日が、僕には特別なものとなっていく。
取材用の部屋に入ってきたピクシーは、恐ろしくピリピリした雰囲気を漂わせていた。浦和レッズをホームに迎えた前週末のホームゲームで、彼が指揮するグランパスは1-1で引き分けていた。90+8分にPKを献上し、勝ち点3を逃したのだった。
悔しい敗戦だったのは間違いないだろう。けれど、試合から2日が経っている。悔しさとか怒りが、そろそろ鎮まってもおかしくない。
ところが、監督就任とともに「ミスター」と呼ばれる男は、はっきりとした怒りを全身から放っていた。悔しさが身体の芯に残っていて、こちらへ向ける視線は恐ろしく鋭い。負のオーラがすさまじい。
居心地は最悪だ。許されるのなら、今すぐ逃げ出したい。
けれど、心のなかでは「すごいな」と思った。「2日経ってもまだ怒ってるって、どんだけ負けず嫌いなんだ」と感心してしまった。偉大なるスーパースターに奇妙な親近感が湧いてきて、この場所に来る前と違う意味で「話を聞いてみたい」と思ったのである。
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著者プロフィール
戸塚 啓 (とつか・けい)
スポーツライター。 1968年生まれ、神奈川県出身。法政大学法学部卒。サッカー専
門誌記者を経てフリーに。サッカーワールドカップは1998年より 7大会連続取材。サッカーJ2大宮アルディージャオフィシャルライター、ラグビーリーグ ワン東芝ブレイブルーパス東京契約ライター。近著に『JFAの挑戦-コロナと戦う日本 サッカー』(小学館)
























