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高校サッカーのスーパースター&元日本代表がメロンパン販売を始めるまで 山田隆裕が振り返る波乱の人生 (2ページ目)

  • 栗原正夫●文 text by Kurihara Masao

【もし名古屋グランパスに入っていたら...】

 山田にとってキャリアのベストパフォーマンスになったのも、この年の試合だった。

「ファーストステージに三ツ沢で(名古屋)グランパスに2-0で勝ちました。その試合で2点を入れたのが、僕の"ベストバウト"です。当時は2トップの一角として自由にサイドへ流れるようなプレーをしていたのですが、グランパスのアーセン・ベンゲル(監督)が僕のスピードを気に入ってくれたみたいで、水面下で移籍の話もあったと聞きました。

 僕は高校時代から右ウイングを主戦場にしていましたし、サイド攻撃を重視していたベンゲルの戦術にフィットすると思われたのかもしれません。同期の大岩剛からベンゲルの指導法については聞いていましたし、その指導を受けてみたい気持ちもありました。実は高校卒業時にもトヨタ自動車(グランパスの前身)入りの可能性があったので、もし行っていたら......という思いはいまだにありますね」

 その後、98年には京都パープルサンガ(現京都サンガ)、99年にはヴェルディ川崎でプレー。いずれも、出場機会を求めるというよりクラブの改革期に必要とされての移籍だったが、00年にあっさりとスパイクを脱いでいる。

 ヴェルディ川崎では出場した29試合のうち19試合が途中出場だったとはいえ、十分に戦力として機能していた。なぜ引退という選択になったのか。

「特に何か準備していたわけではないです。周りからは『まだ、やれば』という声もありましたが、もういいかなと。望めば契約はしてもらえたと思います。ただ、年齢を重ねるなかで、右アウトサイドで勝負することに限界を感じていました。若い頃は簡単にスピードでぶっちぎれていたのに、それが難しくなってきたんです。

 プレースタイルの変化も必要でしたが、極端なスタイルだったぶん、自分のなかでも変化を受け入れるのが難しく、周囲の理解も得にくかった。たとえばマリノスの先輩、木村和司さんは晩年のMFのイメージが強いですが、若い頃はスピードのあるウインガーでした。和司さんは受け手の気持ちを理解していたことで、パスの出し手としても成功できたのだと思います。

 やっぱり足が速いとか、ヘディングが強いとか、スピードや高さに頼っている選手は、いつか自分より速かったり強かったりするヤツが出てきたら終わり。フィジカルで勝負する人間は、いつかフィジカルに負けるんです」

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