「中学の時、コーチだと思って(同学年の)森本貴幸に挨拶した」大学卒業時まで無名だった塩谷司がプロなれたわけ (5ページ目)
そうしたベースの確立はメンタル的な余裕にもつながり、そのパフォーマンスは試合を重ねるごとに迫力を増していく。特にプロ2年目に入ると、本来の「攻撃が好き」というマインドが顔を出し、起点となるようなパスやサイドチェンジ、オーバーラップなど、ダイナミックなプレーも目を引くようになった。
その姿がJ1クラブの目に留まり、「想像より遥かに早く」J1の3クラブからオファーが届いたのが2012年夏だ。塩谷に白羽の矢を立てたのは、残留争いに巻き込まれていた2クラブと、優勝争いをしていたサンフレッチェ広島。前者2クラブは金銭面を含めて条件もよく「すぐにでも戦力になってもらいたい」と求められたのに対し、広島には「この先、終盤にかけて離脱する選手が出ることも想定してポジション争いに加わってほしいと思っている」と伝えられたと聞く。
当時は、試合に出る楽しさを実感し始めていた時期。だからこそ、水戸への残留も含めて頭を悩ませたが、最後は柱谷監督に「広島に行け」と背中を押された。
「大学時代も試合に出られるようになるのが遅かったし、プロになってあらためて試合に出ることで培える自信を実感できていたので、結構悩みました。J1に行ってまた試合に出られない日々に逆戻りするんじゃないかって不安もあって、J1クラブを選ぶなら試合に出られる確率が高そうな残留争いに巻き込まれていたチームかなと気持ちも傾きかけていました。J2で下位に低迷していた水戸からJ1で優勝を争っている広島に行って、通用するのかという疑問もありました。
でもテツさんに相談したら『広島に行け。シオのプレースタイルに合うと思う』と言われ、テツさんが言うならと半ば人任せで決めました(笑)。自分のなかでも不安な気持ちの反面、心のどこかでは広島でチャレンジしたいという気持ちもあったなかで、そのスイッチを押してもらったみたいな感覚もありました」
(つづく)◆塩谷司が振り返る、ふたつのターニングポイント>>
塩谷司(しおたに・つかさ)
1988年12月5日生まれ。徳島県出身。国士館大学卒業後、2011年に水戸ホーリーホック入り。2012年8月、サンフレッチェ広島に完全移籍。2012年、2013年の連覇、2015年と3度のJ1制覇に貢献した。2014年には日本代表にも呼ばれ、2016年にはオーバーエイジ枠としてリオデジャネイロ五輪出場を果たす。2017年、UAEのアル・アインに完全移籍。2018年のFIFAクラブW杯ではチームを準優勝へと導く活躍を見せた。2021年6月、アル・アインを退団。同年秋、古巣の広島に復帰した。
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