「中学の時、コーチだと思って(同学年の)森本貴幸に挨拶した」大学卒業時まで無名だった塩谷司がプロなれたわけ (4ページ目)
言うまでもなく、柱谷コーチがセンターバックとしての塩谷に光るものを感じたからに他ならないが、当の本人は今ひとつ「これで勝負する」と言い切れるほどの武器も、確信もないまま2011年、水戸でのプロキャリアをスタートさせる。目標に据えたのは堅実に「試合に出ること」。だが、そのチャンスは意外にも早く、J2リーグ開幕戦で訪れた。
「開幕前のJ1の鹿島アントラーズとのプレシーズンマッチ前まではずっとサブだったので、当然、鹿島戦も出られないと思っていたんです。なのに、もともと先発する予定だった選手がインフルエンザにかかってしまい、その代役で試合に出してもらえた。
といっても0-3で負けたし、自分自身はやれたという手応えもなかったんですけど、あとで聞いたらテツさんはその試合で『こいつ、やれるな』と思ってくれたらしく......。それもあって、J2リーグの開幕戦でも先発で使ってくれたそうです」
事実、それを機にセンターバックを預かるようになった塩谷はこの年、J2リーグ35試合に先発出場。試合を重ねるにつれて手応えをつかんでいく。
「加入してすぐの頃から、鈴木隆行さんや吉原宏太さん、本間幸司さんら、経験豊富な選手に可愛がってもらいました。ピッチでもいろんなことを教わったし、私生活でもご飯や遊びに連れて行ってもらった。しかもその人たちが結構、早い段階から『おまえはすぐにでもJ1に行ったほうがいいよ』みたいに言ってくれていたんです。最初はふざけているだけだと思っていたんですけど、繰り返し言われているうちに自分も『もしかしてやれているのかも?』と思うようになった。
あとは、当時の水戸はクラブの財政的に厳しく、C契約からスタートした選手が、A契約になる条件を満たしてもB契約になることがほとんどだったんです。なのに、僕はA契約選手にしていただいて......それも自信を持っていいのかなと思うことにつながった気がします。つまり、周りの方に評価してもらったことで、自信が積み上がっていった感じでした」
一方、チームとしては苦しい戦いを強いられ、11勝9分18敗で17位に低迷したが、結果的にその事実もセンターバックとしてのプレーを鍛えることにつながった。
「下位にいるということは、それだけ守備をしている機会が多いってことですから。もちろん、勝つためにやっているので勝てないことは毎回悔しく感じていましたけど、今になって思えば、チームとして守備の機会が多かったのは自分のプレーを鍛えるにはよかったのかもしれない。
僕自身、センターバックとしての経験値はそれほど多くはなかったなかで、レベルの高い相手選手と公式戦で対峙することによって体で覚えられたこともたくさんあったし、周りの選手と連係して守ることを覚えた経験は間違いなく、センターバックとしての基礎を磨くことにもつながったと思っています」
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