川崎フロンターレ・鬼木達監督「涙の退任セレモニー」に違和感 「自分たちのサッカー」とは? (2ページ目)
【「我々のサッカー」では伝わらない】
もっとも、鬼木監督が言う「自分たちのサッカー」は、世の中にどれほど認知されているのだろうか。
直に何十試合と観戦してきた筆者には何となく理解できる。パスワークを駆使した攻撃的サッカー。ひと言でいえばそんな感じだが、この8シーズンもの間に、鬼木監督の口から紡ぎ出された言葉の数はけっして多くない。「自分たちのサッカー」の具体的な中身が、世間に広く言葉として浸透しているとは言い難いのだ。この日の会見でもそうであったように「自分たちのサッカー」に置き換えることが大半を占めた。他の監督も同様だ。「我々のサッカー」「我々のコンセプト」等々の言葉で代用する。
優勝したヴィッセル神戸のサッカーは"非川崎的"だ。吉田孝行監督の代になって一変した感じだが、その特徴は思いのほか詳(つまび)らかになっていない。伝えようとしないメディアの責任も大きいが、改革者に相応しい説明を、吉田監督ができていないことも事実である。
察するしかないのだ。これでは観戦歴の浅いファンには伝わらない。
吉田監督ほどではないが、森保一日本代表監督も喋りベタだ。日本語を駆使し、自分の思うところを語り尽くす言語力に欠ける。SNSなどのネット社会に過敏になり、言質を取られないよう、あえて曖昧にしているのではないかと勘ぐりたくもなる。
これでは監督の色、哲学は浸透しない。監督のカリスマ性も上がらない。重要性も認知されない。逆に言えば、長谷部監督が川崎の有力な次期監督候補に挙がっても、違和感が広がらない理由である。
3位に食い込んだ町田ゼルビアも神戸的なサッカーだ。さまざまな色が存在すること自体悪いことではないが、それが鮮明になり、論争になるくらいでないとJリーグは盛り上がらない。
今季のJリーグを見ていて実感したのは、目を惹く選手の絶対数が減ったことだ。昨季あたりまではまだチラホラ目についたが、ここに来て激減した印象だ。欧州組が100人を超えようという時代である。さすがに好素材は底をついてきている様子だ。
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