実績十分、知名度抜群でJ加入も...。ひっそり消えていった11人の大物助っ人たち (3ページ目)

  • 津金壱郎●文 text by Tsugane Ichiro
  • photo by AFLO

 32歳だった1998年にカルロス・レシャック監督の要請に応じて横浜フリューゲルスに入団。3試合連続ゴールを決めるなど期待をもたせた。しかし同年9月、レシャック監督が成績不振のために退任すると、その後は出場することなくシーズン終了後に引退。Jリーグでの成績は13試合3得点だった。

 ヨハン・クライフが率いた1988年から1996年途中までのバルセロナは「エル・ドリーム・チーム」と讃えられ、そのメンバーからはフリオ・サリナス(横浜M)やチキ・ベギリスタイン(浦和)などが日本に来て活躍した。だが、同じくエル・ドリーム・チームの一員であっても、Jリーグでは爪痕を残せなかった選手もいた。

 そのひとりが、1998年に横浜Mに加入した元スペイン代表MFのヨン・アンドニ・ゴイコエチェアだ。来日当初はサリナスと組んで23試合に出場したものの、シーズンが深まるにつれてベンチを温めることが増え、シーズン終了後に退団となった。

 もうひとりが、オランダ代表として1990年W杯イタリア大会に出場したFWリチャード・ビチュヘ。アヤックスで活躍し、クライフが熱望してバルセロナでもプレーしたストライカーは、2004年に35歳で大分トリニータに加入。だが、キャリア晩年のビチュヘに往年のすごみを望むべくもなく、9試合に出場したのみで日本を去った。

 消えた大物助っ人は、アタッカーばかりではない。南米最高峰の右サイドバックも、わずか1年で日本を去っている。

 ガンバ大阪に2003年に所属した「チキアルセ」ことフランシスコ・アルセは、グレミオやパルメイラスで活躍し、1998年、2002年と2大会連続でW杯に出場したパラグアイ代表DF。日韓大会から半年後にG大阪に加入すると、開幕戦でゴールを決めるなど鮮烈なデビューを飾った。しかしその後は出番を減らし、リーグ戦16試合の出場でチームを離れた。

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