実績十分、知名度抜群でJ加入も...。ひっそり消えていった11人の大物助っ人たち (2ページ目)

  • 津金壱郎●文 text by Tsugane Ichiro
  • photo by AFLO

 浦和の歴史を振り返ると、1996年に加入したDFバジール・ボリやMFブライアン・スティーン・ニールセンもフェードアウトした大物助っ人だ。

 ボリはフランス代表としてユーロ1992を戦い、マルセイユ時代の1992−93チャンピオンズカップ決勝ではACミランのマルコ・ファンバステンを引退に追い込むスライディングタックルを見舞った選手として有名だ。浦和加入1年目はDFラインの一角としてリーグ戦22試合に出場したが、1997年は故障などもあって出場9試合で退団となった。

 ニールセンは1996年後半から加わって背番号10をつけたが、出場は6試合のみ。ユーロ1996に出場した現役デンマーク代表の片鱗を見せることはなかった。その後、2002年W杯日韓大会のメンバーにも選ばれ、再来日を果たしている。

 その2002年のW杯日韓大会で"赤髪モヒカンヘア"の鮮烈なインパクトを残したのが、元スウェーデン代表MFのフレドリック・ユングベリだ。アーセン・ベンゲル監督率いるアーセナルの一員として9シーズン活躍したこともあり、2011年8月に清水エスパルスと契約した時の期待値は当時34歳でも高かった。だが、出場は8試合のみ。ケガの治療で帰国したまま2012年2月に契約解除となった。

 2002年W杯組で言えば、コスタリカ代表FWパウロ・ワンチョペも"消えた大物助っ人"だろう。1996年からコスタリカ代表でプレーし、W杯には2002年、2006年と2大会連続で出場。マンチェスター・シティやマラガなどで活躍し、2007年にFC東京に移籍した。鹿島戦で初ゴールを記録するも、右ひざの古傷が再発してそのまま退団。「コスタリカの怪人」の快足が日本で披露されることはなかった。

 1987年のバロンドールではルート・フリットの次点になるなど、全盛期は「欧州のマラドーナ」と異名をとった名選手も、ひっそりとJリーグを去ったひとりだ。ポルトガル代表として一時代を築いたFWパウロ・フットレである。

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