日本サッカーの概念を超越した選手。プレーは自由奔放で弾けていた (2ページ目)
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ストイコビッチが名古屋にやってきたのは、1994年。Jリーグが開幕したその翌年だ。今から、26年前の日本。現在と決定的に違っていた点は、海外サッカーへの関心、その情報の乏しさだ。
1994年と言えば、アメリカW杯が開催された年と重なる。日本は、その前の年に行なわれたアジア最終予選で敗れ、W杯初出場を逃していた。
世界への扉は半開きの状態で、欧州のサッカーの情報にはまだ疎(うと)かった。1992-1993シーズンから、チャンピオンズカップ(CC)をチャンピオンズリーグ(CL)に発展させるなど、隆盛期に入っていた欧州サッカーの情報なども、日本まで満足に届いていなかったのだ。
そうした状況のなか、海の向こうで、ストイコビッチはイビツァ・オシム監督率いるユーゴスラビア代表として、1990年イタリアW杯に出場。10番を背負って、全5試合スタメン出場した。準々決勝のアルゼンチンでPK戦の末に敗れたが、その名前を広く知らしめることになった。筆者が、ストイコビッチのプレーを初めて直に見たのもこの時だった。
しかし、それから名古屋入りするまでの4年間、ストイコビッチの名前を聞くことは何度もなかった。所属チーム(マルセイユ)はこの間、CCとCLのファイナリストになっているが、ストイコビッチが出場したのは、CCの時の残り数分間のみ。膝の怪我に苦しんでいた。
ユーゴスラビア紛争も、そのサッカー人生に暗い影を落としていた。1992年欧州選手権(スウェーデン大会)予選を勝ち抜き、ユーゴスラビア代表は本大会に向けて出発した。ところが、ユーゴスラビアは内戦の制裁措置として、出場不可とされたのだ。ストイコビッチは表舞台に立つことなく、自国に引き返すことを余儀なくされた。
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