鹿島から獲得話があった当時、昌子源は「ダブル浩二」を知らなかった (7ページ目)
――そして、リーグ戦でも左サイドバックで起用されるようになりました。
「勝っていても、負けていても、70分や80分で、イバさんに代わって試合に出られるようになりました。本職のセンターバックではなかったけれど、Jリーグはアウトサイドにいい選手がたくさんいたので、いい勉強の時間になりました」
――しかし、2013年は負傷離脱することになりました。
「5月でしたね。中断前のJリーグで1試合出場して、(トニーニョ・)セレーゾ監督から、『中断明けからはお前を起用する』と言ってもらえた直後のことでした。だから、監督も強く落胆している様子でした」
――手術をしたんですよね。
「本当は、したくなかったんです。手術しますと言われたとき、『手術はイヤです』と言ったら、『だったら一生このままだぞ』と。膝にロックがかかるような動かない状況で、手術しか解決策がなかったんです。父からの『(小笠原)満男さんも膝の大きな怪我をしたけれど、今はこんな偉大な選手になった。誰もが通る道だから、頑張れ』という言葉にも背中を押されて、手術を受けました」
――本当に大変なのは、手術後のリハビリだったのは?
「苦しかったですね。何度もサッカーやめてやるって思いました(笑)。それでも秋には復帰したんです。もう普通にプレーできる状態でしたが、監督から『今季は1分も起用しない』と宣言されて。試合には出たいけれど、再発しないためには、そういう時間が必要なんだろうと理解しました」
――その長い充電期間があったからこそ、2014年以降ずっと主力で戦えたのかもしれませんね。
「あの怪我はさまざまな意味で、僕にとって大きな出来事だったと感じています」
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