鹿島から獲得話があった当時、昌子源は「ダブル浩二」を知らなかった (4ページ目)
――その後、中学の途中でジュニアユースをやめて、米子北高校へ進学。
「もうプロにはなれないと、完全に諦めていましたね」
――それでも、鹿島アントラーズからオファーを受けました。
「先生から『鹿島がお前に興味を持っている』と言われても、まったく実感がなくて。驚きも興奮もなかった。ただ、そうなんですか......という感じでした。そのとき、『このことは両親以外には言っちゃダメだ』と先生に釘をさされたんです。でも、部室に戻ったらチームメイトが興味津々な表情で『何の話やったん?』と聞いてくるので、『鹿島からオファーがあった』と打ち明けていました(笑)。プロになることを初めて意識したのはこのときですね」
――仲間たちは喜んでくれたでしょう?
「そうですね。ひとりすごい鹿島ファンがいたんですよ。椎本(邦一)さんや熊谷(浩二)さんが、米子へ来てくれたときも、すっごい興奮してました。『ダブル浩二や!』とか言って。『ダブル浩二って何?』と言う僕に、『熊谷浩二と中田浩二や。知らんのか?』って。僕はそれくらい、鹿島のことを知らなかったんですよ」
――それでも当時高校No.1ディフェンダーと言われていた昌子選手。プロ入りは即断したのでしょうか?
「僕自身はそうでしたね。でも、相談した両親は最初僕のプロ入りには反対だったんです。母は大学へ行ったほうがいいと話していましたし、ヴィッセル神戸のユースで指導していたことがある父もプロの厳しさを理解している人だったので、『3年でクビになったら、そのあとどうするんだ』と。でも、そんな父も『鹿島なら行ってもいい』と。周囲も『それはすごいことなんだ』と言ってくれたので、『よし、俺はプロへ行くぞ』って。でも、覚悟とかそういうのはまったくなかったんです。ただ、大学へ行くよりプロへ行ったほうがカッコいいなって。その程度でした。成功してやるとか、プロになる覚悟もないままで」
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