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【育将・今西和男】戦後70年。高校主催の慰霊祭に出席する理由 (3ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko

「われわれの年代は、記憶は定かじゃない。でも、ただ、思想としては絶対に戦争というのはあってはならない、人を殺してはならないということはずっと頭の中に残っていました。当時の娯楽といったら映画しかないんですが、あの頃から、絶対に戦争映画というのは見たくなかった。今でも大嫌いです」

 今西の平和を願う心はこの高校の同窓会に直結する。

 現在からは想像も出来ないが、被爆のせいで今西は何事にも消極的な少年だった。「運動能力はあったし、勉強のほうもそこそこできた。でも、やけどに対するコンプレックスがすごくあって、人前に出るのもしゃべるのも大嫌いでした。それが高校2年でサッカー部に入ると、舟入は全校をかけて応援する校風だったわけです。そのときに短パンから出るケロイドを見られるのが恥ずかしくて、2度とサッカーなんかしたくもないと思った。ところがそういう場面に2回3回遭遇していったら、慣れて声援が嬉しくなるんですね。サッカーの間は火傷を忘れられる。山陽高校や広島修道との試合では必死にプレーして認められた。そこから、前向きに人生を考えられるようになったんです。だから、自分を変えてくれたサッカーとそれを応援してくれた高校に対して、何とか恩返しをしなくちゃいけないと思ったものです。だから44~45歳の時に同窓会長を引き受けました」

 今西は舟入高校の10期生であった。それまで前身の市女と戦後に共学となった舟入の同窓会は別々に存在していた。市女の卒業生の中には自分たちが生き残ったことで、亡き級友に対する罪悪感をおぼえる人たちも少なくなかった。そのうえ、母校まで消滅してしまったと考える人もいた。ちょうど、今西が同窓会の会長になった時に、同窓会として舟入、市女の二つの組織が合併した。これは大切にしなくてはいけない。同窓会の会長は2年おきに次世代の者に変わっていたが、それでは組織として育たない。同級生たちから「お前がやるなら皆、ついていくから」と頼まれてマツダのサッカー部の監督をやりながら5年間続けた。

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