2015.08.15

【育将・今西和男】戦後70年。高校主催の慰霊祭に出席する理由

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko

『育将・今西和男』 特別編2

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 8月6日午前9時45分、猛暑の広島はすでに気温30度を超えていた。市内平和橋の袂(たもと)に、今西はいた。母校広島市立舟入高校の被爆70周年の慰霊祭に出席するためである。舟入高の前身である市立第一高等女学校(市女)は原爆によって、最も多くの犠牲者(676人)を出した学校である。

被爆70周年の慰霊祭式典に出席した今西氏(左)。献花台の前で手を合わせる

 あの日、建物疎開作業に動員されて爆心地近くの材木町にいた市女の1・2年生はほぼ全滅。「多クハ現場ニ失明状態ニテ昏倒」(市女経過日記)。4000度とも言われる地表面の高熱で焼かれて、遺体の区別もつかない状態であったという。当時、1年生だった森本幸恵さんの最期を看取った母トキ子さんの手記には、直接聞いた言葉として、以下のように記されている。

「あたりの友達を見れば皆目の玉が飛び出し、頭の髪や服はぽうっと焼けて、『お父ちゃん助けて、お母ちゃん助けて、先生助けて』と口々に叫んでおりました。その時、目を抑えたものが3人だけでした。『どうせ生きられないんだから、みんな一緒に死にましょう。皆さん舌を噛みなさい』と言って、『貴方は誰、貴方は誰』と名を呼び合い、手をつないで、そこへ屈(かが)んでおりましたが、暑くて暑くて、とてもいられませんでしたので、目のあるものだけ3人『逃げられるだけ、逃げましょう』と、転びながら県庁の橋の所まで来たら、1人の友達が『私、死ぬる』と言って倒れられたので、2人は離れまいと言って手をつないで、ひょろひょろしながら川まで下りました。(中略) 13日朝、静かに君が代を唄い出し、そして、天皇陛下万歳万歳と両手を上にあげました。お世話になった方々みんなにお礼とお別れを言いながら、息を引き取りました」(追悼誌・流燈1号より抜粋編集)