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【育将・今西和男】戦後70年。高校主催の慰霊祭に出席する理由 (4ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko

 最初に各年代の代表委員会の会議に行ってみたら、舟入側の出席者はほとんどおらず、市女の卒業生ばかりだった。このままでは市女の人たちを落胆させてしまう。まずは同窓会の会議に出られる代表を選べと号令をかけて、サッカー部のOBを代表委員会に呼んだ。会議が出来れば活性化する。毎年の慰霊祭も充実し、戦争の記憶は学校の枠を超えて若い世代へと語り継がれていった。

 2つの学校の同窓会の統合に成功した頃、日本サッカー界は鳴動し出す。ソウル五輪に出場ができず、もはやプロ化しかないという機運が高まってきた。ここで一度退任したが、後に再び請われて6年続ける。足かけ11年同窓会会長を務めた。

 今西がかつて、無名だった選手、家庭が複雑で環境に恵まれなかった選手、あるいは民族の属性が異なる選手など、ことさらハンディのある選手に目をかけ育てあげた背景には、この市女・舟入同窓会の存在も大きい。市女の校訓は「ゆりかごを揺らす手が世界を動かす」。教育こそが、豊かな人間と未来を作る。原爆で最多の学徒死没者を出した学校の卒業生として、今西はその教えを体現してきた。


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【profile】
今西和男(いまにし・かずお)
1941年1月12日、広島県生まれ。舟入高―東京教育大(現筑波大)-東洋工業でプレー。Jリーグ創設時、地元・広島にチームを立ち上げるために尽力。サンフレッチェ広島発足時に、取締 役強化部長兼・総監督に就任した。その経験を生かして、大分トリニティ、愛媛FC、FC岐阜などではアドバイザーとして、クラブの立ち上げ、Jリーグ昇格 に貢献した。1994年、JFAに新設された強化委員会の副委員長に就任し、W杯初出場という結果を出した。2005年から現在まで、吉備国際大学教授、 同校サッカー部総監督を務める

 

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