【FIFAワールドカップ】日本が注目のチュニジアはラウンド16で敗退 アフリカ選手権で思い出す富樫洋一氏の活躍
連載第82回
サッカー観戦7500試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」
現場観戦7500試合を達成したベテランサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。
現在決勝トーナメントが行なわれているアフリカ選手権。今回は、アフリカサッカーに造詣が深かったサッカージャーナリスト、故・富樫洋一氏を偲びます。
W杯で日本と対戦するチュニジア。アフリカ選手権はラウンド16で敗退した photo by Getty Imagesこの記事に関連する写真を見る
【サッカーの楽しさを伝える】
ジャンルカ・トト・富樫氏をご記憶だろうか?
Jリーグがスタートした1990年代から2000年代初頭にかけて活躍したサッカージャーナリストのひとりだ。小難しい理屈や戦術論などは言わず、当時のまだあまりサッカーに詳しくなかった日本人ファンを相手にユーモラスな語り口でサッカーの楽しさを伝えた功績は大きかった。
本名は富樫洋一。当時、世界最強だったイタリア・セリエAを愛した氏は、ジャンルカ・ヴィアリとトト・スキラッチにちなんで「ジャンルカ・トト・富樫」と名乗ったのだ。
1951年11月生まれなので、僕より半年ばかり年長。学年で言うとひとつ上になる。
実は、富樫氏のお母さまと僕の母が古くからの知り合いだったので、1970年代、互いにまだ面識を得る前から彼の噂はよく聞いていた。
つまり、ふたりの母親は「うちの息子はサッカーばかり見ていて......」「富樫さんちの息子さんも」「後藤さんのところも......」と愚痴をこぼし合っていたのである。
1970年代と言えば「日本サッカー冬の時代」だ。
1968年のメキシコ五輪で銅メダルを取った日本代表も、その後はすっかり弱体化。W杯はもちろん五輪出場も夢のまた夢になってしまっていた。そんなマイナーな競技であるサッカーを観戦することが仕事になるなど(当人も含めて)誰も思っていなかった時代だ。
いや、もしかしたら何ごとも楽観的だった富樫氏なら、日本中がサッカーに夢中になる未来を信じていたのかもしれないが......。
その後、僕も富樫氏も同じ慶應義塾大学に入学する(富樫氏が浪人したり、留年したおかげで1歳年下の僕のほうが先に卒業を迎えることになったのだが......)。そして、1990年代を迎えるとサッカーというスポーツが脚光を浴びることとなり、富樫氏も僕もジャーナリストとしてサッカーを職業にできた。
富樫氏は僕とは違ってたいへん社交的な人物で、つねに数多くの友人や仲間に囲まれていた。W杯やEUROに取材に行くと、富樫氏の友人と称する世界各国の何人ものジャーナリストに出会ったものだ。
また、富樫氏は車の運転も大好きだったので、海外の大会を取材に行った時にはよく車に便乗させてもらった。1995年にウルグアイで開かれたコパ・アメリカの時には、ウルグアイ中を一緒にドライブした思い出がある(僕は運転免許を持っていないので運転はすべて富樫氏だ)。
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著者プロフィール
後藤健生 (ごとう・たけお)
1952年、東京都生まれ。慶應義塾大学大学院博士課程修了(国際政治)。1964年の東京五輪以来、サッカー観戦を続け、1974年西ドイツW杯以来ワールドカップはすべて現地観戦。カタール大会では29試合を観戦した。2025年、生涯観戦試合数は7500試合を超えた。主な著書に『日本サッカー史――日本代表の90年』(2007年、双葉社)、『国立競技場の100年――明治神宮外苑から見る日本の近代スポーツ』(2013年、ミネルヴァ書房)、『森保ジャパン 世界で勝つための条件―日本代表監督論』(2019年、NHK出版新書)など。


















