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【サッカー日本代表】U-20ワールドカップで日本が奮闘 チリのエスタディオ・ナシオナルの深い歴史を紹介「最大の魅力は...」 (3ページ目)

  • 後藤健生●文 text by Goto Takeo

【1973年のクーデター】

 日本の新聞にチリのニュースが載るのは珍しいことだが、1970年代前半には連日のようにチリ発のニュースが報じられていた。

 チリは南米では珍しい民主国家だったが、1970年の大統領選挙で左翼「人民連合戦線」のサルバドール・アジェンデが当選して社会主義政権が誕生したのだ。

 ソ連(ソビエト連邦)や中国の社会主義政権は革命によって樹立されたものだ。また、東欧諸国は第2次世界大戦後にソ連占領下で無理やり社会主義化された。

 つまり、自由選挙の結果として社会主義政権が誕生したのはチリが初めてだった。

 アジェンデ大統領は社会主義政策を進め、主要産業である銅鉱山の国有化にも着手した。ところが、銅鉱山に利権を持つ米国がこれに反発。1973年9月に米国の支援を受けたチリ陸軍がクーデターを起こした。

 アジェンデ大統領は大統領官邸であるモネダ宮に立て籠り、自ら銃を取って戦って最後は自死する。政権を掌握したアウグスト・ピノチェト陸軍司令官(後に大統領)の独裁政権は左派系市民多数を拘束して「エスタディオ・ナシオナル」に収容。そこで多くの市民や学生が処刑された。

 クーデター直後にはこのスタジアムでチリ対ソ連のW杯予選の大陸間プレーオフの第2戦が予定されていた(モスクワでの第1戦はスコアレスドロー)。だが、アジェンデ大統領を支持していたソ連は「血塗られたスタジアム」での試合を拒否して中立地開催を求めたが、FIFAは開催地変更を認めず、ソ連は試合を棄権してチリのW杯出場が決まった。

 僕が最初にサンティアゴを訪れたのは、そんな大事件が起こってからまだ5年も経っていない時で、サンティアゴ市内のあちこちに軍事クーデター当時の弾痕が残っていた。

 サンティアゴに到着した翌日には「エスタディオ・ナシオナル」で国内リーグの観戦にも行った。ウニベルシダ・カトリカ(カトリック大学)対エベルトンという名門同士の対戦だった(アルゼンチンW杯でチリは予選敗退していたのでW杯直前でもリーグ戦があった)。

 市内のニュニョア地区にあるスポーツ公園内にあるエスタディオ・ナシオナル。全面同じ高さの1層式のスタンドが取り囲む長円形の陸上競技場だ。現在の収容力は4万6190人だが、1962年のW杯がチリで開催された時には約8万人以上を収容した。

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