なでしこジャパンの始まりはいつ? 日本女子サッカーにも長い歴史あり (3ページ目)
【1990年代からコツコツと進歩】
日本代表は1995年の第2回W杯(スウェーデン大会)のブラジル戦でW杯初勝利を記録したが、やはり欧州、米国の強豪や中国には勝てなかった。
1994年には広島アジア大会が行なわれ、女子サッカーで日本は決勝で中国に0対2で敗れて銀メダルに終わったのだが、当時の感覚では「中国相手に0対2」というのは大善戦だった。
当時活躍していた木岡二葉、半田悦子、野田朱美、高倉麻子などは皆、すばらしいテクニシャンたちで一体感のあるチームではあったが、欧州勢や米国、中国相手にはフィジカル能力で及ばなかった。
日本の女子サッカー人口はまだ微々たるものだったし、アスリート能力が高い女子選手たちは伝統的な女子スポーツであるテニスやバスケット、バレーに流れてしまっていた。
1996年のアトランタ五輪では、28年ぶりに出場した男子代表が王者ブラジルを破る「マイアミの奇跡」を起こしたが、この大会からついに女子サッカーも五輪正式種目となり、日本も出場したが3戦全敗に終わる。
僕は男子を中心に観戦していたので、残念ながら日本女子代表の試合を見ることはできなかったが、優勝した米国の試合は見ることができた。そして、その圧倒的な走力やパワーなどフィジカル能力に愕然としたものだ。
アトランタ五輪でも米国と中国が決勝で対戦した。
中国は、他競技をやっていたアスリート能力の高い選手をサッカーに転向させることで強いチームを作っていた。まだ、世界的な普及度が低い女子サッカーなら、そうした方法で世界一を狙えるからだ。
そんななかでも、日本の女子サッカーは少しずつでも普及と強化を進めていった。1990年代には澤穂希という、技術も戦術もフィジカル能力もメンタル的な強さも兼ね備えた選手が現われ、15歳の時に代表入りして経験を積んでいった。
僕は、2007年に中国で開催されたW杯を観戦に行ったことがある。
中国の古都、杭州で試合があるというので観光がてら見に行ったのだ。日本はイングランドと引き分け、アルゼンチンに勝利したが、最終ドイツ戦に敗れて1勝1分1敗ながらグループ3位で敗退となった。
当時の僕は、まだ女子代表選手のことも全員よく知っているわけではなかったが、宮間あやという当時まだ22歳の若い選手が左右両足から繰り出す正確なキックに驚かされたものだった。
その後、僕は2023年のW杯(豪州・ニュージーランド)も観戦に行ってスペイン相手に4対0で勝利する姿も目撃したのだが、一生の不覚は2011年のドイツ大会を見に行かなかったことだ。
「どちらを見に行こうか」と悩んだ末、同時期にアルゼンチンで開催されたコパ・アメリカを選択したのだった。当時はアルゼンチン滞在中には女子W杯の映像など見られなかったので、文字情報だけで日本の快進撃を追っていた。今となってはそれも懐かしい思い出ではある。
著者プロフィール
後藤健生 (ごとう・たけお)
1952年、東京都生まれ。慶應義塾大学大学院博士課程修了(国際政治)。1964年の東京五輪以来、サッカー観戦を続け、1974年西ドイツW杯以来ワールドカップはすべて現地観戦。カタール大会では29試合を観戦した。2025年、生涯観戦試合数は7500試合を超えた。主な著書に『日本サッカー史――日本代表の90年』(2007年、双葉社)、『国立競技場の100年――明治神宮外苑から見る日本の近代スポーツ』(2013年、ミネルヴァ書房)、『森保ジャパン 世界で勝つための条件―日本代表監督論』(2019年、NHK出版新書)など。
【写真】なでしこジャパン長谷川唯&長野風花フォトギャラリー
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