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なでしこジャパンの始まりはいつ? 日本女子サッカーにも長い歴史あり

  • 後藤健生●文 text by Goto Takeo

連載第39回 
サッカー観戦7000試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」

 なんと現場観戦7000試合を超えるサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。

 今回は、先日史上2度目のアメリカ撃破を果たしたなでしこジャパンの変遷について。レジェンド澤穂希以前にも長い歴史があります。

今から約30年前の1994年、アジア大会の壮行試合に臨むサッカー日本女子代表 photo by AFLO今から約30年前の1994年、アジア大会の壮行試合に臨むサッカー日本女子代表 photo by AFLOこの記事に関連する写真を見る

【2度目の米国戦勝利】

 米国で行なわれていた「シービリーブスカップ」で日本女子代表(なでしこジャパン)が3戦全勝で優勝した。豪州、コロンビア相手の2試合連続4得点(とくに、コロンビア戦の谷川萌々子の開始18秒のロングシュート)にもびっくりしたが、最終戦では米国相手に2対1で完勝する姿を見せてもらった。

 伝えられているように、米国相手の勝利は13年ぶり2度目のことだ。

 2011年W杯では2度リードを許すが2度とも追いついて引き分けに持ち込み、PK戦で勝利したのが、翌年のロンドン五輪ではやはり決勝で対戦して返り討ちにあい、2015年のW杯決勝では2対5と夢を打ち砕かれた。昨年のパリ五輪準々決勝でも日本は守備を固めて粘ったものの、延長戦で惜敗した。

 しかし、今回はついに米国のホームゲームで日本が勝利。内容的にも前からプレスをかけて相手陣内でボールを奪い、そこからしっかりとボールを動かして、日本が90分間優勢に試合を進めた。

 古くから女子サッカーを見ている者として、感慨深いものがあった。

 実は、日本でも古くから女性たちはフットボールをプレーしていた。

 第2次世界大戦前は、小学校は男女共学だったがその後は男女別学で、男子は中等学校、女子は高等女学校に進学するものだった。そして、各地の女学校でフットボールが行なわれていたというのだ。

 単にボールを蹴る運動をするだけの学校もあれば、簡易化したルールで試合を楽しんでいた学校もあるようだが、詳しいことはわかっていない。

 また、戦前の強豪チーム「東京蹴球団」(東京高等師範学校などの卒業生によるクラブ)には数名の女性選手が所属していて、ちゃんとフットボールブーツ(昔はくるぶしまで覆う形の靴だったので「ブーツ」と呼んでいた)を履いて本格的にプレーしている様子が、当時のスポーツ雑誌に載っている。

 ただ、その後「フットボールは男性的スポーツ」という意識が強くなって、女子サッカーは衰退してしまった。

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著者プロフィール

  • 後藤健生

    後藤健生 (ごとう・たけお)

    1952年、東京都生まれ。慶應義塾大学大学院博士課程修了(国際政治)。1964年の東京五輪以来、サッカー観戦を続け、1974年西ドイツW杯以来ワールドカップはすべて現地観戦。カタール大会では29試合を観戦した。2025年、生涯観戦試合数は7500試合を超えた。主な著書に『日本サッカー史――日本代表の90年』(2007年、双葉社)、『国立競技場の100年――明治神宮外苑から見る日本の近代スポーツ』(2013年、ミネルヴァ書房)、『森保ジャパン 世界で勝つための条件―日本代表監督論』(2019年、NHK出版新書)など。

【写真】なでしこジャパン長谷川唯&長野風花フォトギャラリー

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