なでしこジャパンの始まりはいつ? 日本女子サッカーにも長い歴史あり (2ページ目)
【戦後の再スタートは1960~70年代】
再び女子サッカーが脚光を浴び始めたのは、1960年代になってからだ。
とくにサッカー先進地の神戸市では女子チームがいくつか作られ、1967年3月に行なわれた「神戸サッカーカーニバル」では神戸女学院中等部と福住小学校のチームが対戦し、福住小が1対0で勝利。この模様は日本で最も古い専門誌の『サッカーマガジン』にも写真入りで紹介された。
その後、神戸や東京、静岡を中心に少しずつ女子チームは増えていったが、当時は女子の団体球技ではバレーボールやバスケットボールが盛んで、とくに東京五輪で金メダルを取った女子バレー人気は高かった。
欧州では19世紀から女子サッカーは盛んに行なわれていたようだが、やはり男性優位主義が強まったためか、欧州各国の協会(FA)やFIFAは女子サッカーを認めていなかった。
だが、1960年代から70年代にかけて女性が社会に進出するようになり、スポーツ界でも多くの競技で女子種目が認められるようになった。その象徴が、それまで何の根拠もなしに「女子には過酷すぎる」と信じられていた女子マラソンが、1984年のロサンゼルス五輪から正式種目として採用されたことだ。
こうした流れのなかFIFAもようやく重い腰を上げて普及と発展に動き、日本でも1979年に日本協会傘下に女子サッカー連盟が発足した。
日本の女子サッカーにとっての初めての国際試合は1977年の第2回アジア女子選手権だったが、この大会には単独チームのFCジンナンが代表として出場している。そして、連盟発足後初めて日本女子代表が編成されたのは1981年の第4回アジア女子選手権でのことで、これがJFA公認の最初の国際試合だったが、1勝2敗でグループリーグ敗退に終わった。
同年の9月には、女子代表は日本国内初の国際試合を行なった。神戸で開催されていた「ポートピア81(神戸ポートアイランド博覧会)」記念の国際大会が開催され、日本は神戸でイングランド、東京でイタリアと対戦。0対4、0対9でともに大敗を喫した。
僕が初めて女子代表の試合を観戦したのも、この時のイタリア戦だった。当時、世界最高の女子選手のひとりと言われたエリザベッタ・ビニョットを擁するイタリアに対して、日本代表はとても歯が立たなかった。
アジアでは当時、台湾が圧倒的に強かったが、しばらくすると中国(中華人民共和国)が台頭。1991年には中国の広東省で第1回FIFA女子W杯が開催され、米国で開催された第3回W杯で中国は決勝に進出して米国と対戦。PK戦の末に準優勝に終わっている。
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