谷口彰悟がプロの誘いを断り、筑波大に進学した理由「自信がなかった。自分の将来に保険をかけていた」
【連載】
谷口彰悟「30歳を過ぎた僕が今、伝えたいこと」<第14回>
◆【連載・谷口彰悟】第1回から読む>>
◆第13回>>初めて日本代表のユニフォームを手に取った日
熊本・大津高時代の谷口彰悟は、大型ボランチとして才能を開花させつつあった。高校選手権に出場し、川崎フロンターレのスカウトからも目をつけられる存在となる。
しかし、プロチームからの誘いがあったにもかかわらず、オファーを断り筑波大へと進学する。当時18歳の谷口は、どのような思いで決断したのか。
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大津高時代の谷口彰悟 photo by Takahashi Manabuこの記事に関連する写真を見る 今思えば、当時の自分は、純粋に自信がなかっただけだったと思う。
前回(第13回)のコラムで、大学時代に経験したユニバーシアード競技大会について触れたが、高校を卒業した僕は、筑波大学でサッカーを続ける選択をした。
筑波大を選んだのは、自分自身が抱いていた印象やイメージが大きかった。
というのも、僕には9つ年上の姉がいる。陸上競技に励んでいた姉の実力は全国区で、大学に進学する際は、複数の学校から声がかかっていた。多くの大学からの誘いに対して、両親が特に驚き、姉に勧めていたのが筑波大だった。結果的に姉は自分で考え、違う大学に進学したのだが、子どもながらに両親が絶賛する筑波大に、自分自身も憧れや魅力を抱くようになっていた。
だから、高校3年生になり、自分の進路について真剣に考え始めた時、正直、筑波大以外の大学は選択肢になかった。それくらい筑波大学への印象は、当時の自分のなかに潜在的に刷り込まれていた。
一方で、僕には高校を卒業して、すぐにプロになる選択肢もあった。
熱心に声をかけてくれたのは、のちにプロとしての一歩を踏み出すことになる、川崎フロンターレだった。
高校2年生で出場した全国高校サッカー選手権大会が終わった1月、フロンターレは宮崎県の綾町でキャンプをしていた。そのタイミングで、フロンターレの強化部でスカウトを担当している向島建さんが、「キャンプで練習参加してみないか?」と誘ってくれたのだ。
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プロフィール
原田大輔 (はらだ・だいすけ)
スポーツライター。1977年生まれ、東京都出身。サッカー専門誌『ワールドサッカーグラフィック』の編集長を務めたのち独立。Jリーグを中心に取材し、各クラブのオフィシャルメディアにも寄稿している。主な著書に『愛されて、勝つ 川崎フロンターレ「365日まちクラブ」の作り方』(小学館クリエイティブ)など。