「彼のマネをしようとして空回りしていた」ヴェルディの王様だった山本理仁はどうやって挫折を克服し、ガンバ移籍を決断したのか

  • 浅田真樹●取材・文 text by Asada Masaki
  • photo by AFLO

サッカー日本代表「パリ世代」インタビュー09
山本理仁(ガンバ大阪/MF)前編

 まだJリーグが誕生する以前、読売クラブを名乗った時代から、東京ヴェルディは数々のテクニシャンを世に送り出してきた。栄光の時代が過ぎた現在もなお、Jリーグ初代王者のアカデミーからは、"らしさ"をまとった才能が輩出され続けている。

 山本理仁もまた、そんな選手のひとりだ。

 小学4年生から東京Vのアカデミー(育成組織)で育った山本は、高校2年生だった2019年1月、17歳にしてトップ昇格。同じ年、ユース時代の恩師である永井秀樹監督がシーズン途中にトップチームの監督に就任するや、"秘蔵っ子"はたちまち頭角を現した。

 その後、足かけ4シーズンにわたって東京Vで主力を務めたレフティは、昨夏、新天地を求めてガンバ大阪へと移籍。そこでハイレベルな中盤のポジション争いに身を投じ、研鑽を積む日々を送っている。

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山本理仁(ガンバ大阪)2001年12月12日生まれ山本理仁(ガンバ大阪)2001年12月12日生まれこの記事に関連する写真を見る── 山本選手はジュニア(小学生チーム)から東京ヴェルディ育ちですね。

「3歳くらいから『つくい中央』という少年団に入って、幼稚園の途中から小3までは家の近くにあったヴェルディ相模原のスクールにも通っていました。小3の時にヴェルディとフロンターレのセレクションを受けて、合格したヴェルディに入った、という感じです」

── ポジションは小さいころからボランチだったのですか。

「小4でヴェルディジュニアに入って、最初はFWをやっていたんですけど、小5の時にふとしたタイミングでボランチをやってからは、ずっとボランチです。

 僕はFWをやっていても、そんなに得点に対する意欲が......まぁこれ、FWとしてはよくないと思うんですけど、そんなにがめついタイプでもなくて(苦笑)。それよりも相手の逆を取るプレーに喜びを感じていたので、むしろ中盤に下がって球に触る機会も増えて『こっちのほうが楽しいわ』って感じでした」

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