「中村俊輔と小野伸二を一緒にプレーさせた。私のベストゲームのひとつ」。トルシエは日本での始動となる2試合で能力を証明した (3ページ目)

  • 田村修一●取材・文 text by Tamura Shuichi
  • photo by REUTERS/AFLO

 トレーニングは常に、スモールピッチのなかで受け手の名前を呼びながらパスを繰り出すパス・コントロールから始まった。

「それが、サッカーの基本であるからだ。試合を見ても、行なわれているのはパス・コントロールの繰り返しだ。時にうまくいかないこともあるが、すぐにまたコントロールされる。

 プレーの90%はパス・コントロールだ。私にとってパス・コントロールは、ボールを速く動かしながら選手自身も素早く動くための言葉であり、サッカーにおける共通言語でもある。ドリブルやシュートがプレーに占める割合はせいぜい10%程度だろう。ベースとなる共通の言語は、パス・コントロールだ」

 独特の理論と独特の方法論。トルシエが日本に持ち込んだのは、特異な合理的サッカーだった。

「私は、どこでもこのやり方で仕事をしてきた。チームとして、どうプレーするか。

 監督の仕事を始めた時に留意したのは、選手をチームのなかに配し、ライン間の連携をとれるように配慮することだった。それが、私の方法論で、私のもとでプレーした選手に話を聞けば、誰もが同じことを言うだろう」

 それは、トルシエが育成された過程や選手としての経験から生まれたものだった。

「私は自分の感覚をもとに仕事をしている。理路整然と仕事を進めるのではなく、その時、その時の感覚でどうするかを決める。もちろん、事前に準備はするが、時にピッチで感じたことに従い、すべてを変える。

 サッカーは生きもので、何が起こるかはその時にならないとわからない。予想外の事態が常に発生し、その場、その場で適切な対応が求められる。だから、練習でも、試合でも、私はそんなふうにずっと仕事をしてきた」

 日本人には馴染みのない特異なサッカーでありながら、トルシエは限られた時間のなかですかさず結果を出している。A代表の初戦となったエジプト戦(1998年10月28日/大阪・長居)と、初めて五輪代表を率いたアルゼンチン戦(1998年11月23日/東京・国立)で、彼は勝利を収めた(ともに1-0)。

 アフリカチャンピオンとユースの世界チャンピオンを破ったことで、自らの能力を証明したのだった。トルシエが当時を振り返る。

「そのふたつが私のデビュー戦だったが、事前に福島(Jヴィレッジ)で合宿を行なった。A代表と五輪代表の合宿が選手たちとの最初の直接的な出会いで、私は直ちにラボラトリーを作り上げて、組織的なチームづくりを始めた。

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