「中村俊輔と小野伸二を一緒にプレーさせた。私のベストゲームのひとつ」。トルシエは日本での始動となる2試合で能力を証明した (4ページ目)
フラット3による組織的で、コンパクトな守備とパス・コントロール。どんなコンセプトでチームを作ろうとしているかを彼らに伝えた。その際に決して優しくはなかったし、忍耐強くもなかった。妥協は一切なく、ギャップが埋められることはなかった。私は日本でも、私のやり方を課した。
選手は本当に驚いていた。これまで彼らが経験してきたものとは、まったく別のマネジメントだったからだ。私はアグレッシブに選手たちを挑発し続け、彼らの個人的な感情をほとんど顧みなかった。選手を私のラボのなかに入れて多くの情報を与えた。選手たちには未知の経験だった」
迎えたエジプト戦。「簡単ではなかった」とトルシエは回想する。
「日本は新しいチームになったばかりで、斉藤(俊秀)をセンターバックで起用したのを覚えている。いろいろな変更があったにもかかわらず、日本は中山(雅史)のPKで勝利を収めた。私にとっては、自分が日本代表監督に相応しいことを証明する勝利だった。監督の仕事を続けていくうえで、とても重要だった」
だが、トルシエにとってエジプト戦以上に重要だったのが、アルゼンチンに対する勝利であった。
「若い世代のほうが、より大きな可能性とポテンシャルを持っていることがわかったからだ。同じ練習を経て試合に臨んだが、五輪代表――当時はU-21代表だった――のほうがレベルが高く、進歩も目覚ましかった。
試合自体のレベルの高さにも驚いた。新しいシステムで臨んだにもかかわらず、選手たちは即座に適応した。
さらに、私は中村(俊輔)と小野(伸二)を、3-4-2-1システムで一緒にプレーさせた。ストライカーの後ろのゲームメーカーのポジションだ。プレーとシステムのクオリティという点で、私のベストゲームのひとつだった」
日本代表監督としてのトルシエの活動は、こうしてスタートしたのだった。
(文中敬称略/つづく)
フィリップ・トルシエ
1955年3月21日生まれ。フランス出身。28歳で指導者に転身。フランス下部リーグのクラブなどで監督を務めたあと、アフリカ各国の代表チームで手腕を発揮。1998年フランスW杯では南アフリカ代表の監督を務める。その後、日本代表監督に就任。年代別代表チームも指揮して、U-20代表では1999年ワールドユース準優勝へ、U-23代表では2000年シドニー五輪ベスト8へと導く。その後、2002年日韓W杯では日本にW杯初勝利、初の決勝トーナメント進出という快挙をもたらした。
フォトギャラリーを見る
4 / 4