「みんな圭佑にボールを集めていた」豊田陽平が代表に定着できなかった理由【2020年度人気記事】 (2ページ目)
2010年から日本代表を率いたアルベルト・ザッケローニ監督は、自分たちがボールを動かす能動的なスタイルを推し進めていた。それを目指すだけの選手がいたと言える。本田圭佑、香川真司、遠藤保仁は、世界に伍するボールプレーヤーだった。サイドバックの内田篤人、長友佑都も高い位置を取り、コンビネーションを使って崩し切る。当時、世界を席巻していたスペインのティキタカにも似た戦いを模索していた。
しかし、ザックジャパンは満を持した2014年ブラジルワールドカップで、一敗地にまみれた。「自分たちらしさ」と気取ったパスワークは通用しなかった。他の戦い方のオプションがなく、相手の交代策に屈し、なす術なく敗退した。
豊田は予備登録メンバーには入ったが、大会にはいなかった。
最後の代表戦となった2015年1月、アジアカップのUAE戦。豊田は途中出場したが、ハビエル・アギーレが率いたチームは1-1から延長PK戦の末に敗れている。
「結局のところ、自分は国内の選手で。海外でプレーする選手に自分の良さを伝えられていなかったんだと思います」
かつて豊田はそう言って、大会を淡々と話していた。
「鳥栖では、自分中心のチームづくりをしてもらい、得点を取れていました。代表では、自分をどう生かしてもらえるか、という着地点が見つけられなかったですね。どう生き残るか、になってしまい、良さがデメリットになっていました。自分としてはクロスをゴールして代表に選ばれていたから、例えばファーで決めるのが得意なのにニアで潰れる、というのは違う気がして」
豊田の長所は一瞬でマークを外し、クロスや裏へのパスを呼び込むところにあった。しかし動き出してもボールは出てこない。当時の代表は頑なにショートパスで攻め続けた。
「良し悪しではなく、みんなが圭佑(本田)にボールを集めるというチームでした」
大会後のインタビューで、豊田は冷静に振り返っていた。
「圭佑もボールを要求するし、たしかにあいつは本当にうまいんですよ。圭佑としては、"つないで攻めたい"という気持ちはあったんでしょう。(1-1で迎えたUAE戦終盤も)わざわざショートコーナーにするくらいでしたからね。"アジアレベルならそのやり方で勝たないといけないし、勝てるはず、負けるはずはない"という彼なりの自信があったんだと思います」
2 / 3