日本サッカーは名FKキッカーが絶滅の危機。元祖名手・木村和司の嘆き (2ページ目)

  • 篠 幸彦●取材・文 text by Shino Yukihiko
  • photo by Getty Images

――松永さんとの居残り練習の日々が、キッカーとしての礎だったんですね。

「最初の頃は蹴れば入りよった。簡単よ。でもそれから成立自身も考えて、少し後ろに構えて立ってみたり、前に出てみたり、いろいろと工夫するわけ。それをまたワシが決めてやるんよ。それでまた成立はいろいろと考えていく。その相乗効果でお互い腕を磨いていった。だからよく言っているけど、成立が代表になれたのはワシのおかげよ(笑)」

――当時、それだけFKの練習をするのは珍しかったんですか?

「ワシくらいやろ。今はFKを練習する時の壁に使う人形の型をした器具とかがあるけど、ワシらの時代はそんなものはなかった。だから当時日産自動車(現横浜FM)の監督だった加茂周さんがつくってくれたよ。鉄骨にネットを張って、下には車輪がついていた。ワシのためにつくってくれたようなもんだから、練習せんといかんと。よう蹴ったな」

――それだけFKを練習しようと思った、きっかけはあったんですか?

「ワシらの時代の海外の選手と言ったら、ブラジルのペレとか、リベリーノとか、そういう選手だった。そのふたりが直接FKを決めているのを見て、自分もやってみようとなったんよ。いまは世界中の映像を簡単に見ることができるけど、あの頃はなかなか見本がなかった。ただ、ペレとかリベリーノの映像はあったからよかったな。リベリーノが壁に味方を入れて、味方が屈んだところに強烈なフリーキックを打ち込んで決めたゴールがあったけど(1974年西ドイツW杯)、あんなの見たらワシもやってみたいと思うよな」

――そんな世界のトップ選手の映像を参考にして練習されていたんですね。

「あの頃は教えられる人もおらんかった。当時の日本代表監督には『相手の顔を狙って思いっきり蹴れ』って、そう言われたよ。そんな時代だった」

――そんな時代のなか、あの韓国戦の芸術的なFKはまさに偉業ですね。

「あれがあって、韓国はワシのFKが怖いから、絶対にペナルティーエリア近くではファールをしない約束になったらしい。後々の交流戦の時に言っとったな。たしかにあのFK以来、韓国がペナルティーエリア近くでファールすることはなかったもんな」

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