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【WBC 2026】監督よりも長く侍ジャパンを見てきた男 村田善則が15年で積み上げた勝つための思考 (2ページ目)

  • 石田雄太●文 text by Yuta Ishida

「国際大会の試合は、たとえばジャイアンツのシーズン中の試合とは戦い方がまったく違います。1年というスパンのシーズンなら自チームの選手や相手の選手の特徴、調子の良し悪しまでも十分わかったうえで試合に臨めるんですが、国際試合はそうはいきません。相手を知って、自チームのピッチャーのこともよく知って臨む戦い方と、情報が少ないなかで白紙から積み上げていく戦い方はまったく違うんです。

 そういう意味で、国際試合でのカギを握るのはデータです。相手バッターしかり、ジャパンに入ってくるピッチャーしかり、いろいろな方向でキャッチャーとしてのチャンネルを切り替えていかないと積み上げていくのは難しいんです。だから、まずはしっかりした情報、データを頭に入れていく。その作業があっての先に感性が生まれますからね。

 ダル(ダルビッシュ有)とも話しましたが、確かにデータやピッチクロック、ピッチコムと感性は相性がよくない。ただ、いちばん近くて見ているキャッチャーがある程度の時間をかけ、配球的にも臨機応変に対応しながら感性を大事にするのが、日本の野球のよさだと言うところはダルも言っていました。僕もそう思いますし、データは大事にしながら、それがすべてではなく、その日のピッチャーの調子や、データと違って思ったよりもこうだなぁというキャッチャーの感性も大切にしようと......つまりは感性とデータはゼロ百の話じゃないと思っています」

【二番手捕手として養った観察眼】

 1992年のドラフト会議で、佐世保実業高校のキャッチャーだった村田は、星稜高校の松井秀喜とともにジャイアンツから指名された(松井は1位、村田は5位)。3年の夏には主将として甲子園へ出場、松井の5敬遠に日本中が震撼する星稜対明徳義塾の試合が行なわれた同じ日の第1試合、常総学院を相手に延長10回、村田がサヨナラスクイズを決めている。

 プロ入り後はジャイアンツ一筋で16年プレー、村田真一がマスクを被り続けていた1990年代には出場機会に恵まれなかったが、2000年に76試合に出場してレギュラーをつかみかけた。

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