関根潤三はミスした秦真司に「命までとられるわけじゃないんだ」と二軍に落とすことなく起用しつづけた (4ページ目)
本人が口にしたように、関根と秦とは法政大学の先輩後輩の関係にある。2024年の春季キャンプにおいて、秦は久しぶりに安藤統男と出会ったという。安藤は、関根監督時代の作戦コーチである。秦が続ける。
「安藤さんは、『関根さんはおまえに対して、本当に厳しかったよなぁ』と笑っていました。それで、『あんまり秦のことをいじめないでやってくださいよ』と、監督コーチ会議で口にすると、『いいんだよ、あいつアイツは法政の後輩だから』っていつも言っていたそうです(笑)」
関根監督2年目の88年は122試合に出場。ついに秦は正捕手の座を掴つかんだ。しかし、89年のシーズン終了後に関根が監督を退任すると、関根退任後にはその座を失ってしまう。後任の野村克也監督、そして古田敦也の登場が秦の野球人生を大きく変えることになったのである。秦が見た「関根と野村の違い」とは何か?
関根潤三(せきね・じゅんぞう)/1927年3月15日、東京都生まれ。旧制日大三中から法政大へ進み、1年からエースとして79試合に登板。東京六大学リーグ歴代5位の通算41勝を挙げた。50年に近鉄に入り、投手として通算65勝をマーク。その後は打者に転向して通算1137安打を放った。65年に巨人へ移籍し、この年限りで引退。広島、巨人のコーチを経て、82〜84年に大洋(現DeNA)、87〜89年にヤクルトの監督を務めた。監督通算は780試合で331勝408敗41分。退任後は野球解説者として活躍し、穏やかな語り口が親しまれた。2003年度に野球殿堂入りした。20年4月、93歳でこの世を去った。
秦真司(はた・しんじ)/1962年7月29日、徳島県生まれ。鳴門高から法政大を経て84年ドラフト2位でヤクルトスワローズに入団。88年に強打の捕手としてレギュラーをつかむと、野村克也監督のもと91年からは外野手に転向し、その年のオールスターに出場するなど中心選手として活躍。99年に日本ハム、2000年にロッテでプレーし、同年限りで現役引退。引退後はロッテ、中日のコーチを歴任し、08年からはBCリーグに新加入した群馬ダイヤモンドペガサスの監督に就任。12年から17年、19年とまで巨人のコーチを務め、現在は解説者として活躍している。
著者プロフィール
長谷川晶一 (はせがわ・しょういち)
1970年5月13日生まれ。早稲田大学商学部卒。出版社勤務を経て2003年にノンフィクションライターとなり、主に野球を中心に活動を続ける。05年よりプロ野球12球団すべてのファンクラブに入会し続ける、世界でただひとりの「12球団ファンクラブ評論家(R)」。主な著書に、『詰むや、詰まざるや 森・西武 vs 野村・ヤクルトの2年間 完全版』(双葉文庫)、『基本は、真っ直ぐ──石川雅規42歳の肖像』(ベースボール・マガジン社)、『いつも、気づけば神宮に 東京ヤクルトスワローズ「9つの系譜」』(集英社)、『中野ブロードウェイ物語』(亜紀書房)、『名将前夜 生涯一監督・野村克也の原点』(KADOKAWA)ほか多数。近刊は『大阪偕星学園キムチ部 素人高校生が漬物で全国制覇した成長の記録』(KADOKAWA)。日本文藝家協会会員。
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