関根潤三はミスした秦真司に「命までとられるわけじゃないんだ」と二軍に落とすことなく起用しつづけた

  • 長谷川晶一●文 text by Hasegawa Shoichi

微笑みの鬼軍曹〜関根潤三伝
証言者:秦真司(前編)

1988年は自己最多の122試合に出場した秦真司氏 photo by Sankei Visual1988年は自己最多の122試合に出場した秦真司氏 photo by Sankei Visualこの記事に関連する写真を見る

【関根潤三との出会い】

 秦真司が「その人」と出会ったのは、プロ3年目を迎えた1987年シーズンのことだった。法政大学時代の84年にはロサンゼルスオリンピックに出場し、金メダル獲得の立役者のひとりとなった。同年ドラフト2位、鳴り物入りでヤクルトスワローズ入りしたものの、ベテランの八重樫幸雄の後塵を拝し、なかなか正捕手の座を掴みきれない。そんな時期に、秦は関根潤三と出会ったのである。

「監督が代わるということは、選手にとっては環境が大きく変わるということでもあります。プロ2年間で自分が培ってきたことに加えて、心機一転、新たなことに挑戦して、きちんと結果を残して新監督にアピールしなければいけない。関根さんがヤクルトに来たときには、そんな思いでいました」

 当時のチームは、1970年代からレギュラー捕手を務めてきた大矢明彦が85年限りで現役を引退し、八重樫幸雄が正捕手となっていた。八重樫はすでに30代後半を迎えており、「次世代捕手の育成」はチームとしての最重要課題であった。そんな頃に秦はプロ入りした。しかし、なかなか結果を残すことはできなかった。

「プロ入りした85年は41試合、2年目は59試合の出場に終わりました。自分としてはものすごくふがいない思いでいっぱいでした。即戦力として入団したにもかかわらず、まったく結果を残せていませんでしたから。そこの頃は『この成績ではクビになるかもしれない......』と考えていたので、専門家の指導を受けて、睡眠管理、栄養管理を始めました。同時にタバコも酒も、パチンコもやめ、当時の彼女とも別れました。そんな時に関根さんと出会ったんです......」

 生前の関根潤三から、こんな言葉を聞いたことがある。

「就任直後、『正捕手は秦にしよう』と決めました。ただ、正捕手の八重樫とはまだ力の差があった。だから彼には厳しく接したし、八重樫にも『悪いけど秦の面倒を見てやってくれ』と頼みました」

 八重樫が証言する。

「たしかに、関根さんからは『秦の面倒を頼む』と言われました。でも、僕だって、何もせずにポジションを明け渡すつもりはなかったから、秦には『面倒は見るし、気がついたことは指摘もするけれど、おまえがピッチャーから信頼される捕手になるまではポジションを明け渡すつもりはないからな』と伝えました」

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著者プロフィール

  • 長谷川晶一

    長谷川晶一 (はせがわ・しょういち)

    1970年5月13日生まれ。早稲田大学商学部卒。出版社勤務を経て2003年にノンフィクションライターとなり、主に野球を中心に活動を続ける。05年よりプロ野球12球団すべてのファンクラブに入会し続ける、世界でただひとりの「12球団ファンクラブ評論家(R)」。主な著書に、『詰むや、詰まざるや 森・西武 vs 野村・ヤクルトの2年間 完全版』(双葉文庫)、『基本は、真っ直ぐ──石川雅規42歳の肖像』(ベースボール・マガジン社)、『いつも、気づけば神宮に 東京ヤクルトスワローズ「9つの系譜」』(集英社)、『中野ブロードウェイ物語』(亜紀書房)、『名将前夜 生涯一監督・野村克也の原点』(KADOKAWA)ほか多数。近刊は『大阪偕星学園キムチ部 素人高校生が漬物で全国制覇した成長の記録』(KADOKAWA)。日本文藝家協会会員。

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