小笠原道大が明かす巨人でプレーすることの重圧 「チームが負けると、得点機に凡退した写真が新聞の一面で使われる」 (4ページ目)

  • 水道博●文 text by Suido Hiroshi

── 現役19年間で5人の監督に仕えましたが、それぞれどんな印象をお持ちですか。

小笠原 上田利治監督(1997〜99年)は、私を見出してくれた方。2番打者として、思い切りのびのびと打たせてくれました。大島康徳監督(2000〜02年)は、私をさらに大きく、確固たるものにしてくれました。トレイ・ヒルマン監督(2003〜06年)は、アメリカ野球を取り入れ、日本一を味わわせてくれました。原辰徳監督(2007〜13年)は、経験値が円熟味を増すように導いてくれました。谷繁元信監督(2014〜15年)は、代打の切り札として使っていただき、花道をつくってくれました。

── 指導者としては、中日の二軍監督、日本ハムの一軍ヘッド兼打撃コーチ、巨人の二軍、三軍打撃コーチを経験されました。

小笠原 先(一軍監督)に進むには、すべて必要な経験だったと思います。中日二軍監督時代は、育成選手、一軍準備選手、投手面において、総合的にチーム運営を勉強できました。日本ハムのコーチ時代は、打撃の技術指導に加え、データを駆使して栗山英樹監督の考えるチーム戦略を支える2年間でした。巨人時代は、一軍昇格と定着のためには「どういう育成が必要か」を考えていました。

── 指導者生活の8年で得た、現段階での「指導者論」「小笠原野球」を教えてください。

小笠原 大前提は「優勝を目指して勝つ」野球です。そこに選手のキャラクターを生かし、ファンと一緒に盛り上がれる「魅力あるチームづくり」をしていくことですね。これからの評論家生活で、さらに知識を増やしていきたいと考えています。


小笠原道大(おがさはら・みちひろ)/1973年10月25日、千葉県生まれ。暁星国際高からNTT関東を経て、1996年のドラフトで日本ハムから3位で指名され入団。99年に「バントをしない2番打者」としてレギュラーに定着。2002、03年には2年連続して首位打者に輝いた。06年には本塁打王、打点王の二冠に輝き、MVPを獲得。チームも日本一を達成した。同年オフにFAで巨人に移籍。巨人1年目の07年に打率.313、31本塁打、88打点の活躍で優勝に貢献。史上初めてリーグをまたいでの2年連続MVPに輝いた。13年オフに中日に移籍し、おもに代打として活躍。15年に現役を引退した。引退後は中日二軍監督、日本ハムのヘッド兼打撃コーチ、巨人二軍コーチ、三軍コーチを歴任。23年オフに巨人を退任し、現在は解説者として活躍中

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