西武・佐藤隼輔「もうあのスライダーは追い求めない」伝家の宝刀と決別も3年目の進化へ自信 (2ページ目)

  • 菊地高弘●文 text by Kikuchi Takahiro

 筆者が初めて佐藤を見たのは、筑波大1年時だった。部員全員が真っ白の練習着でキャッチボールをするなか、ひとりのサウスポーに釘づけになった。投手らしい均整のとれた体つきに、柔らかさと力強さが共存した腕の振り。しばらく眺めていると、筑波大の川村卓監督から「やっぱり気になりますよね」と話しかけられた。

「これが仙台高校から入った佐藤です。私もあとから聞いたのですが、プロ志望届を出せばドラフト上位指名は確実だったそうです」

 ただし、当時は150キロを計測するほどのスピードはなく、どちらかといえばストレートの軌道から変化するスライダーを絶対的な武器にしていた。高校進学時には「人の家でご飯を食べられないから」という理由で寮生活ができず、地元の市立高校に進んでいる(その弱点は大学進学時に克服した)。あくまでも素材段階で、「将来が楽しみ」という印象だった。スポーツ科学に裏づけられた筑波大で酷使されることもなく、佐藤は少しずつ階段を上がっていった。

【大学3、4年時は消化不良】

 そんな佐藤が急成長を見せたのは、大学2年時だった。6月の大学日本代表候補合宿の紅白戦に登板した佐藤は、自己最速を4キロ更新する150キロをマーク。そのボールは数字以上に勢いを感じさせた。

 進化の背景に何があったのかを佐藤に聞くと、「ジャンプなど瞬発系のトレーニングを積んで、ピッチングにつなげるコツをつかみました」と語った。じつは川村監督が慎重を期して実施した、スピードアップのためのメソッドがあったのだ。川村監督はこう語っている。

「球速を上げるトレーニングは体が備わっていないとケガの危険もあるので、1年間体をつくったうえで暖かい時期にやりました」

 ただし、短期間での急成長は諸刃の剣でもあった。結果的に佐藤は大学日本代表に抜擢され、リリーフで重用される。疲労がたまったまま迎えた秋のリーグ戦終盤でスライダーを投げた際、佐藤は「ヒジが飛んだ」錯覚があったという。

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