増井浩俊が明かす野球人生のターニングポイント 球界屈指のリリーバーはこうして誕生した (3ページ目)

  • 水道博●文 text by Suido Hiroshi

── 2014年からはクローザーを務めることになります。

増井 大学の先輩でもある武田久さんのあとを継ぐ形となりました。2015年は56試合に登板して39セーブを残したのですが、最多セーブのタイトルを獲得したソフトバンクのデニス・サファテには2つ及びませんでした。

── 増井さんのなかで、目標にしていた投手はいたのですか。

増井 藤川球児さん(元阪神など)です。藤川さんの"火の玉ストレート"と評された真っすぐは、狙っていても当たらないと言われていました。僕もストレートに自信を持っていましたので、藤川さんのような球を投げたいなとずっと思っていました。

── 最終的に史上2人目、パ・リーグでは初となる通算150セーブ、150ホールドの偉業を達成しました。中継ぎと抑えの違いはどういったところだと思いますか。

増井 日本ハム時代は相手が「右打者なら僕」「左打者なら宮西尚生」と役割分担されていました。しかし抑えは、相手が苦手な打者でも、自分の調子が悪くてもマウンドに上がって試合を終わらせないといけない。そういうところにストッパーの厳しさを感じました。抑えをやっていると、先発投手の勝ち星やチームの勝利を消してしまうことがあります。野球人生のなかで一番プレッシャーがかかる時期でした。眠れない夜を何度も経験しました。

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増井浩俊(ますい・ひろとし)/1984年6月26日、静岡県生まれ。静岡高から駒澤大、東芝を経て、09年ドラフト5位で日本ハムに入団。11年に先発からセットアッパーに転向すると、12年には最優秀中継ぎのタイトルを獲得。14年からクローザーを任され、15年は39セーブをマーク。16年はシーズン途中から先発に転向し10勝をマークして日本一に貢献した。17年オフにFA宣言してオリックスに移籍。18年は63試合に登板し35セーブを挙げる活躍を見せたが、20年以降は思うような結果を残せず、22年に戦力外通告を受けた。現役続行を希望していたが、他球団への移籍はかなわず引退を決断した

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