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「落合博満監督と驚くほど似たような指導を受けた」江藤慎一が最後にプロに送り出した岡本真也がその人柄と特別な思いを語る (2ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko

 江藤のパイプから、広岡達朗、江夏豊といった面々が指導に来てくれた。特に広岡は頻繁に訪問してくれては、内野手出身であるにも関わらず投手の技術について詳細に教えてくれた。講義の時間も設けられており、それは江藤自らが教壇に立っていた。「僕が江藤さんの授業で一番覚えているのは、『攻撃の際は、常に1、3塁にして続けていけ』と言われたことです。1、3塁であった場合、ファーストもベースについていますし、1、2塁間が大きく空いている。そこへ左バッターなら引っ張る、右バッターであったら、ボテボテでもライトへゴロを打てば、1塁ランナーが3塁に到達する可能性が一番高い。だから1、3塁でいけば、ピッチャーも精神的に追い詰められる。僕はプロに入ってからも1、3塁というのは、意識的に作らせないようにすごく気をつけていました。」攻撃時は1、3塁を続けろ、守備の際には作らせないようにしろ。これと同じ定石を岡本はプロに入ってからもひとりの監督から聞く。落合博満である。

「その後、中日に入団して落合監督の下でやるんですけど、江藤さんと驚くほど似たような指導を受けました。ヤオハンの講義では『ドジャースの戦法』(アル・カンパニス著)も必読であっという間に全ページ読みました。その本でも守備の大切さが強調されていて、点を取られなかったら絶対負けない。それは、のちに出逢う落合さんも同じ考えだったんですよ。点をやらなけりゃ、勝てる。1勝143分でも優勝なんだよっていう考えで、それって、江藤さんの言っていたこと似ているなと思ったんです」

 岡本の学びは大きかった。

「僕はヤオハンで野球に対する見方が変わりました。それ以前は練習をやらされているというイメージだったんですけど、プロに行くにはやれるだけやらないと後悔すると心に決めて、冬場の(スーパーマーケットで)一日勤務のときとかでも寮に帰ってご飯を食べた後にそこから2時間、3時間、普通にトレーニングしていたんですよ」

 モチベーションを上げたのは江藤だった。「プロはいいぞ」とことあるごとに自分の体験を岡本に語って聞かせた。熊本で赤貧洗うが如しの生活を体験していた江藤はバット一本で家族を養い、弟(江藤省三)を大学まで出している。企業スポーツでも実力が給料に反映されるべきと考え、ヤオハンに掛け合って、選手には年功序列ではなく野球の技量で給料が支払われるようになっていた。結果を出して20代でも月に50万もらっている野手もいた。これらの環境整備もまたプロ志向の考えからであった。

 冬場もストイックに練習に打ち込んだ岡本の投げるボールは見違えるように球速が上がり、エースに上り詰めていく。1994年にチームを都市対抗大会に導いた中心選手の大西崇之はすでに中日にドラフト指名されて去っていたが、入れ替わるように入団した岡本の活躍でヤオハンは社会人野球の激戦地区である静岡で勝利を重ねていった。そして97年についに2度目の都市対抗出場を決めた。岡本の貢献度は大きかった。

 体罰やパワハラで学校の部活動から挫折した野球少年たちを救い上げるために開校した野球体育学校に端を発し、クラブチームの天城ベースボールクラブ、そしてヤオハンジャパンと、江藤がゼロから立ち上げて来たチームはついに日本のアマチュア野球のトップカテゴリーでも確固たるプレゼンスを示すまでに至った。順風満帆にすべてが回るかと思われた。しかし、晴天の霹靂がチームを襲う。2度目の都市対抗出場を決めたこの年の9月18日、親会社の倒産が発表されたのである。選手たちが晴れの舞台、東京ドームを行進したちょうど2カ月後であった。                                     

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