「落合博満監督と驚くほど似たような指導を受けた」江藤慎一が最後にプロに送り出した岡本真也がその人柄と特別な思いを語る (3ページ目)
ヤオハン野球部は休部という名の廃部を余儀なくされた。江藤はチームの存続のためにスポンサー探しに奔走し始めた。選手たちは約6割の休業補償を受け取りながら、独自の冬季練習に入っていった。とはいえ、先行きはまだまったく見えない。
都市対抗出場の立役者、岡本の元には神奈川や愛知のチームからの移籍の誘いが10社以上も届いた。特に同じ静岡を拠点にする名門ヤマハからは、500万円の支度金まで提示されていた。
それでも岡本はチームに残ることを選んだ。
「僕は江藤さんを信じていました。そしてこのメンバーでまた野球がやりたかったんです。抜けた人もいなくてほとんどの選手が残りましたし、自分だけが出ていくのはどうかと考えたんです」
岡本はオファーをくれた会社に丁寧に断りを入れた。江藤はアムウェイとのスポンサー契約を結び、チームはアムウェイ・レッドソックスとしてクラブチームとしての再起がはかられた。選手たちはアルバイトをしながら、野球を続けた。
再開にあたり、江藤はユニークなことを言い出した。
「女子野球を始めようと思ってるんだ。俺らはクラブチームになったんだし、メンバーの中に女子選手も入れて大会に出場できる。女子選手を募って一緒にやろうと思うけど、お前らどうだ?」
岡本たちは異存もなく「別にいいですよ」と答えた。女子の野球選手が募集され、3人の選手が採用になった。この年、アムウェイ・レッドソックスは岩手県で行なわれた全日本クラブ野球選手権大会で優勝を飾る。岡本はエースとして投げ抜き、決勝戦で完封を成し遂げる。彼は二遊間のどちらかのポジションには女子選手がついていたと記憶している。相手チームは9人全員が男子である。素直な疑問であるが、投手として女子選手が内野守備にいることに抵抗はなかったのだろうか。
「いえ、確かに動く範囲は狭くて男子のスピードにはついて来られないのはわかっていましたけど、彼女たちも一生懸命に野球に取り組んでいましたし、その姿を僕らも見ていましたから。例えそれで失点してもチームに女子選手がいることには何の不満もなかったです。ただそれで思い出したことがあります」
少し笑って続けた。
「中日から西武に移籍したときです。二遊間の打球が妙に抜けていくなと思ったことがあって...。アライバ(荒木雅博&井端弘和)なら捕ってくれていたものが、あのころの西武は片岡(易之/現・保幸)と中島(宏之)がまだ出始めで二遊間の守備範囲が狭くて(笑)。これ書いてもらって良いですよ、仲が良いですから(笑)。そのときにレッドソックス時代を少し思い出していました」
1998年、アムウェイ・レッドソックスはクラブチーム日本一に輝いた。しかし、秋の支部大会が始まるころ、岡本は江藤に呼ばれた。「これまでよく投げてくれた。ただ今のこの環境のままではプロにはいけないだろう。だから、お前を取ってくれるところがあれば、もう遠慮なく移籍していいからな」と告げられた。
「女子も入ってきましたけど、クラブチームの日本一になるのは当たり前だと思っていましたし、僕はクラブチームからプロに行くつもりでした。でも江藤のおやじにもうお前の将来のために移籍しなとダメだと言われて腹を決めました」
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