巨人V9時代に王・長嶋の後ろを打った末次利光が語る「最高」と「最悪」 当時の球場は「想像がつかないような雰囲気になった」 (3ページ目)
【あらためて感じる川上哲治の偉大さ】
――川上さんが監督をやめられた後にお会いする機会もあったと思いますが、監督をされていた時の印象とは違いましたか?
末次 違いましたね。監督をされている時は最も尊敬する方であり、師匠であり、地元の大先輩という感じでしたけど、やめられた後にお会いした時はい"いオヤジさん"でしたよ。
ただ、お会いするとしても、会食などで年に1回ぐらいでしたね。たまにゴルフコンペでご一緒させていただいた時は打ち解けた感じでお話ができましたが、野球のことは話しませんでした。
――地元が同じということで、可愛がられていた?
末次 普通はそう思いますよね? それが、逆に厳しかったんです。打撃指導を受ける時も、ほかの選手より厳しくされていた部分があったのかもしれません。ただ、僕も地元の後輩が同じチームにいたら、やっぱり厳しくなるんじゃないかなと思いますけどね(笑)。
――末次さんは引退後、巨人で一軍や二軍の打撃コーチ、二軍監督などを歴任されていますが、川上監督の教えが生かされることはありましたか?
末次 僕らが川上さんから教えていただいた時と同じように、何事も"徹底"を意識して取り組んでいましたね。原辰徳も自分がコーチになってから入ってきた選手ですが、「中途半端ではなく、最後まで徹底してやり抜くことの大切さ」を伝えていました。
――末次さんは「野球の教え方がうまい」という評判をよく耳にします。
末次 いやいや、普通ですよ(笑)。教えるといえば、数年前まで子供たちを対象とした野球スクールを宮崎と熊本で続けていたのですが、コロナ禍で中止になってしまったのが残念で仕方がなくて......。子供たちに野球をしっかり教えて、いいプレーヤーになってくれたらいいな、という思いで取り組んでいたので悔しかったですね。
――ここまで、川上さんが球界に遺されたものをいろいろとお聞きしましたが、巨人だけでなく、野球界にとっていかに大きな存在であったかをあらためて実感します。
末次 川上さんの存在は、野球界にとって非常に大きかったと思います。2013年に亡くなられて、もう10年になるんですね。当時、東京ドームホテルで「お別れの会」があり、各界の著名な方々が1000人近く来られたのですが、その光景を目の当たりにした時にあらためて「偉大な方だな」と思いました。地元の熊本県人吉市で行なわれた追悼の式典でも、九州の各県から重鎮の方々が訪れていましたね。
――末次さんにとって、川上監督との出会いはターニングポイントになりましたか?
末次 私の人生のすべてを変えてくれた方です。僕が物心ついた時から"神様"のような存在でしたけど、今でもそれは変わりません。
【プロフィール】
末次利光(すえつぐ・としみつ)
1942年3月2日、熊本・人吉市出身。鎮西高、中央大を経て、1965年から13年間巨人でプレー。川上哲治監督が率いるV9時代に、長嶋茂雄、王貞治と共に5番打者としてクリーンナップを形成した。1971年には日本シリーズMVP、1974年にはリーグ4位の打率.316を残してベストナインにも選ばれている。1977年に引退後は巨人の2軍監督、スカウト、編成部長などを歴任した。
著者プロフィール
浜田哲男 (はまだ・てつお)
千葉県出身。専修大学を卒業後、広告業界でのマーケティングプランナー・ライター業を経て独立。『ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)』の取材をはじめ、複数のスポーツ・エンタメ系メディアで企画・編集・執筆に携わる。『Sportiva(スポルティーバ)』で「野球人生を変えた名将の言動」を連載中。『カレーの世界史』(SBビジュアル新書)など幅広いジャンルでの編集協力も多数。
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